2011年7月28日木曜日

日本のホームスクール

銀龍さんのブログを読んでみて、日本のホームスクールの周回遅れというより、日本人の意識の問題を考えざるを得なくなった。これを整理しないとなぜ日本がアメリカに追いつけないかが分からない。

 日本人の特徴
日本人の特徴を取り上げるとよく言われることだが、
1.礼儀正しい
2.勇猛果敢
3.無計画無鉄砲
が上げられる。でもこれらの点は一つの特性をいくつかの言葉で表現している。

いくつか例を挙げたい。


日中戦争で盧溝橋事件までの日本はとても慎重で中国との戦闘を回避しようと苦労していたが、戦闘状態に入ったとたん、暴走を始めた。上層部は何とか深入りを避けようと悪戦苦闘しているのに、現地の戦闘部隊は次々と中国軍を叩いて侵攻し、政府はその命令違反を事実上事後承認してしまう。その繰り返しでずるずると深みに入って行った。

サッカーの国際試合でも日本から来た観客はみんなそろってきれいに応援し、日本が不利になろうと有利であろうと変わらなかったが、応援を終えてみんなで観客席をきれいに掃除して帰って行ったそうだ。このことは世界の人々がその薄気味悪さに恐怖すら抱いたそうだ。

今回の東日本大地震でも誰もパニックにならずに水食料の配給に整然と行列をし順番に受け取っていた。

どの時代の日本に来た人たちの記録を見ても日本人の礼儀正しさと、落ち着いた振る舞いに驚いている。一方、戦闘状態になった時の強靭かつ獰猛な姿に触れている記事も多い。

日本人の資質
普通、人は前や横は見えているが後ろは見えない。それが当り前だと思う。それに対し日本人は四方1mはよく見えているが、前方は10mぐらいしか見えない。少し気が利いている人なら前方100mぐらいが見えるが、他の多くが見えていないため、100m見えている人の言うことが理解できないので無視されてしまう。そして後ろが見えない日本人がいればKY(空気が読めない)と言われる。
日本人以外は普通に前方100mが見えている。特に欧米人は1キロ先を見ようとし、見える人も多い。だから外国人から見て後ろが見える日本人は異質であり、神秘的ですらある。

資質の由来
これは日本が島国であり、さらに袋小路であることが日本人の性格を形作ってきたのではないだろうかと思う。過去多くの技術や文化は中国から伝わってきて、その文化を発展させてもどこにも伝える先がなかった。だから日本人は受け取って発展させた自分の文化をさらに内へ内へと純化していくしかなかった。
文化や技術は外から来てそれを発展させるものであると日本人は理解した。

例えば鉄砲はポルトガルが種子島に伝えてきたが、その火縄銃を瞬く間に日本中に伝播し鉄砲術として昇華し普及していった。にもかかわらず、明治維新が来るまでその銃はそれ以上進化することはなかった。


仏教はおおよそ聖徳太子のころ日本に伝わり、それが日本の古来の神道と複雑にミックスされ独自の宗教として発展したが、新しい宗教を創出することは現在に至るまでほとんど見受けられない。
 文化や技術を受け入れても、戦争という侵略は元寇を除くと受けなかった。つまり日本では民族を賭けた戦争はなく、支配者間の権力の争奪戦でしかなかった。さらにその権力も絶対ではなく、あくまでも天皇統治下の実務上の支配権の奪い合いであった。

こういった経緯が日本民族をして身近な親族か隣近所の人間的交流を濃密化させる方向に進化させた。それに比べ他の国では異質な民族との戦争および経済的交流を通じた広範囲なコミュニケーションこそが身を守る術であった。

それではなぜ、日本人は勇猛なのかといえば周囲1mがよく見えるため、簡単に結束できるのがひとつである。さらに誰かが勇敢な姿を示すとその空気を乱したくないという心理が働き、さらに強化した行動をとる。

中国人は一人では龍だが三人寄ると虫になる。日本人は一人では虫だが三人寄れば龍になると言う言葉があるが、中国人は後ろが見えないのでお互いが信頼できない。日本人は後ろの心配がいらないので背中を合わせて戦うことができる。という風に考えることができる。

無鉄砲さは前方がよく見えないからいうまでもないだろう。

日本人には統一された宗教がないと言われる。八百万の神だけでなく、仏教も何種類もあり、キリスト教や道教の伝統も受け継いでいる。でも日本教というのがあると言ったのが山本七平だったが、この日本教は前後左右1mの信仰だろうと思う。

日本の教育
日本の教育を考えるに当たってここまでに考えたことを基にして進めないと、理解できない。日本の学校教育は明治維新のとき初めて取り入れられた。ここまでに述べたとおり、受け入れるとなるととにかくその形を受け入れ、それを日本に都合のいいように調整して完成させる。
明治維新はそれまでの徳川幕藩体制を近代産業社会に置き換える必要があった。さらに欧米帝国主義はすぐ隣の中国を侵略し始めていた。産業を興し、軍隊を整備しなくてはならない。さもないと日本は植民地になってしまうという危機感はすさまじいものだったろう。一方、欧米の教育制度もやはり諸外国との戦争を通じた国民レベルで戦闘能力と産業生産力を高めるために必要としたものである。日本も否応なく欧米の教育制度を導入するしかなかった。

その形が第二次世界大戦を通して現在につながっている。この100年を超える歴史の中で教育制度は日本的に純化してきた。つまり教育産業である。この教育産業には公立、私立の教員、教員管理職、教育委員会、教科書会社、給食産業、教材会社、文科省および教育官僚、族議員、日教組等がこの教育という産業に連なる一種の身内社会を構成している。

こうなるとこの身内にはよそからは介入もできない。子どもはもちろん、親も納税者も部外者である。原発の技術者と原子力科学者と電力会社がみんなでつるんで原発開発を続けていた構図とそっくりである。お茶や花を家元制度に純化して高度な身内社会を構築したのも同じことだと思う。教育制度は他人がうかがい知れない家元と同じ仕組みを国家レベルで構築している。この仕組みはそう簡単には崩壊しない。それに抵抗し抗議する人間はバッシングされるか無視される。

つまり、日本の教育はヨーロッパで生まれた教育制度を日本的に強化発展させたもので、身内意識が強く、教室内は先生の独裁で、学校は校長の支配で、市や県の教育委員会は教育長の支配下で身内を構成していて、外部が立ち入れない閉鎖空間になっている。外国ではすでに機関銃まで開発されていたにもかかわらず、日本で究極の火縄銃として完成させていたのと同じである。

教育の限界
教育はもはや立ちいかないところに来ている。
公立の小学校に行っていた子どもが、先生のほとんどが屑で、まれに普通の先生がいるが、私立の中学に行くと、ほとんどが普通の先生でまれに素晴らしい先生がいると言っていた。公立の中学や高校はもはや学校の体をなしていない。ある子は勉強したい奴は塾か家庭教師で勉強している。他は高校へは行かないといけないから行くだけで、勉強をしたくて高校へ行く子どもは多分一人もいないと言っていた。

なぜこうなったか。理由は簡単である。「1000人いれば1000種類の人がいるのに、学校では全員同じことを同じ時間否応なしにやらないといけない。」それに尽きると言える。

明治維新以来の高度成長期には勉強をすることがすなわち経済的自立であった。勉強すればそれなりの仕事を得られた。その仕事は江戸時代までには存在しなかった。そしてその仕事に就くことで得られる収入はそれまでの家庭産業の農業や職人で得る収入より高かった。
1000人いて、その内技術者が10人、その他労働者が990人いれば当時の産業は成立した。産業が進化すると、消費者が必要になり、労働者がそのまま消費者になった。その労働者兼消費者は読み書き計算ができれば十分で高度な学問は必要なかった。だから学校は全員が理解できる必要もなく、垂れ流し的教育で蔓延していたのである。

だから留年はほとんどない。留年するような生徒は単純に劣等感だけ植え付けて卒業させ、黙々と言われたとおり働き、テレビに言うとおりに消費する羊のような労働者になればそれでいいのだ。優秀な10人だけが大学に行き、大企業の経営者か官僚になって日本を支配するようにしている。

それでも貧しくても夢があり、その夢はヨーロッパが与えてくれた。だから、前方が見えなくてもみんな一緒に頑張れた。戦争で敗れはしたが、全員が同じ貧乏に落ちたので今度はアメリカが夢を与えてくれて、それに合わせて頑張ればよかった。そこでは多少の凹凸があっても等しく頑張ることもできた。日本は技術者も経営者も労働者もさほど収入に差がないため至って安定していた。経済は順調に成長し、アメリカ経済を脅かすまでになった。

でもアメリカを蹴落とすことはできなかった。そのころバブルがはじけ、共産主義国家が次々と単純労働から参加してきた。またコンピュータが進化して単純作業だけでなく、ある程度の知識を要する仕事まで奪い始めた。
夢は失われ、新しい夢を作ることは官僚にも経営者にもできなかった。仕事は一部の優秀なクリエイターがいれば間に合うようになってきた。いいかえると1人の創造する人がいれば、試作品は10人で、生産は自動化された工場か途上国で、販売はネットでやるから工員も店員もいらない。でもサービス業は必要だし、消費者もいるから最低限の仕事は残るがかなり極端な低所得者が989人ということになる。それすらも外国で作って外国に売れば必要なくなっていく。一握りの豊かな人とその他大勢の貧民という新しい日本の構図になりつつある。

日本がアメリカに追いつけないのは「日本がアメリカの後を追っているから」である。アメリカを追い越すにはアメリカ以外の道を自分で探すべきだ。とは言え、周囲1mしか見ない日本人がアメリカ以外の道を見つけることなど出来るのだろうかという疑問が拭えない。

制度の提案
では日本はこれからどうするかといえば 、創造するしかない。日本のアニメやゲームが世界に受けていて、ファッションや料理も日本が注目されている。この苦しい中で子どもたちは新しい日本を作ろうとしている。
日本にはまだ創造する力が少しは残っている。その創造する力を高めるためには子どもに選択肢を用意する必要がある。いま子どもたちは何一つ選ぶことができない。せいぜい不登校になるしかない。学校の種類をもっとふんだんに用意し、公立といえども生徒が来なければ廃校にすべきだ。どの授業を選択するかを小学1年生から認めるべきだ。子どもたちに選ばれなかった先生は退職すべきだ。

自らの道を選びとれるとき人は創造的に行動する。

クリエイターが200人という形になればそれに対する800人のサービス労働は成立可能だ。創造する人が200人も必要かといえば、必要はない。でも創造には限りがない。どんなものでも完成された製品は一つもなく、常に新しい製品が生まれる可能性がある。新しく発表されたときそういう考えがあったかと驚くが、どれも普通の人が考え出したものだ。必要でなく、ひねりだすのである。
今日本の学校は創造すると言う点に関する教育はゼロである。なぜなら教師その人たちが創造したことがないからだ。

創造すると言うことは過去の知識だけではなく、自由な発想がなければならないが、学校に自由がないのだから、当然いかに勉強しても新奇な発想は生まれない。
新奇な発想は天性のものだから、もとより学んでできるものでもない。それでも発想力のある子どもが規格量産の学校で押しつぶされて、引きこもっていしまった例はかなりあると思われるが、1m四方しか見えない人間(教師)にそのことが分かるはずもない。

つまり学校が日本の可能性を潰していると言い換えても過言ではない。


一方親たちは進学競争に熱を入れ、少しでも高い学歴がないとクリエイターになれないと思いこんでしまった。もちろん学歴があればクリエイターになれるわけはない。学歴があっても仕事がないか、貧民的収入しか得られないことになる。


 時代は10年も前から変わっている。気づいていないのは教師と専業主婦である。子どもはすでに気づいている。文科省も薄々感じている。でも子どもを教育すると考えている側は何一つ分かっていない。


ホームスクール
日本の教育の現状の中で子どもをいかに育てるかという問題に直面している。学校制度という観点からみればすべての学校が文科省の補助金の中で運営されているのだから、どの学校も程度の差でしかない。学校に絶望している。
ホームスクールをやれば学校制度が変わると考えるほど、甘くはない。でも、いずれこのままでは日本は立ちいかなくなる。でも学校が変わるまでに、私の子どもは大人になってしまう。それでは親としての責任が全うできない。
 
その中で純粋に子どもの将来を考えれば自立性をはぐくむと言う風に考えるしかない。何を教えても、将来を指し示すにしても、自分が持つ知識や将来への展望であり、子どもの未来を確定できるはずもない。そうだとすれば、子どもが自らの力で歩き、考え、人を動かすことができるようにするために今何をすべきかを考えるしかない。


四つの誓いに書いたこともすべてはこの為にある。
テレビを見れば人の考えをそのまま受け入れてしまうことになるだろう。
叱られれば、叱る人の考えをそのまま受け入れるか、否定するしかなくなるだろう 
意見を聞かれれば、常に自分の意見を整理しておかないといけないだろう。
勉強をすると、世の中には正解が一つはあるものと信じることになるだろう。

子どもが自分の未来を自らの足で立ってもらうための私の誓いである。

私は改めて思う。子どもを教育すると言うことは子どもを破壊しているに他ならない。子どもは自ら調べ、考え、そこから学ぶことを覚える。親はその子が進む道を歩きやすく整備はするが、歩くのは子ども自身であり、その道を通らないこともあり得る。

すべては子どもの為の人生であり、子どもが創る夢だから。

8 件のコメント:

銀龍 さんのコメント...

すばらしい記事で感動の涙。
教育鎖国Japan!多くの人にこれを読んで目を覚ましてもらいたい。(私も目が覚めました!)
アメリカ人に、「日本ではホームスクールが非合法なの?クレイジーだ。」とか、「学生がサラリーマンみたいなユニフォーム着て、軍事教育みたいね。」と言われます。不登校が多いのも、学力低下も世界に知れ渡ってるようです。
とうはんさんの仰るとおり、日本人は礼儀正しい、すばらしい民族です。清潔だし。
団結力も抜群。でも自分の意見なしに、TVに洗脳されたり、周りに合わせて、まとまって集団で流されてちゃ~だめかもと思うんです。
特に、教育。愛する我が子ですもん、親が責任を持たないと。教育の基本は勉強って思っている人が大多数だけど、子供がどれだけ笑って、泣いて、おこって、色々感じて生きているかが大切だと思うんです。子供時代に右脳が育っていないと左脳はふんづまりになるんじゃないかな。左脳ばっかり先に育てちゃうと右脳はしぼんじゃう。
わがやは子供の想像力が宇宙大に広がっているのを毎日楽しんでいます。
ホームスクールっておもしろいかも~!とか、日本でも合法化するべきだね!とか、子供を学校に通わせているのが不安だわ~!という方もこのグループで発言していただきたい。
私、この記事、プリントアウトして10回くらい読ませていただきます。

とうはん さんのコメント...

銀龍さん 読んでいただいてありがとうございます。書いてみて長すぎたかなと思っていました。^ ^;
日本は保守的でなかなか変わろうとしません。それでもある日突然という風に急激に方向転換するときがあります。そのためには水滴が岩を穿つような長い時間と根気よい働きかけが必要だと思っています。
私が生きている間に変わることはないかもしれませんが、息子の息子の代には学校へ行く、行かないはともかく、生きていることが楽しいと思える時代が来てるといいなと思っています。

chibimikan71 さんのコメント...

こんにちは。はじめまして。
銀龍さんのブログからこちらの事を知って、お邪魔させていただきました。

現在、カリフォルニアに住んでいます。
カナダ人の主人と4歳の息子、来週3歳になる娘の4人家族です。アンスクーリングに興味を持っていて、子供2人はプリスクーラーですが行かない日にはアンスクーリングの実践、というつもりでやっております。

ちょうど、いろいろなホームスクーリングに関する書籍をよんでいて、漠然と、日本の学校教育システムの歴史はどうなんだろう・・・と思っていたところでこの記事を見つけ、すごくクリアになりました。ありがとうございます。
自分も日本でどっぷりと教育を受けた人間なので、中にいるとぜんぜん見えなかったのですが、実は子供一人ひとりのニーズではなく、古い社会のシステムに合わせて便利な人間を生産するための方法だったのですね。

おっしゃるとおり、日本人ならではの良さもたくさんありますよね。こっちにいて、他のアジア人のなかでも日本人ということで好意的に声をかけていただく機会が結構あります。これは今までの前世代の方々が築いてくださった財産だとも思います。でも、やはりどこか物足りない感を感じることもあって、それがどこから来るのかな~と考えていたら、おそらく皆が同じことをしたり言ったりして、いったいどの程度本気なのかが分からない、ということでした。あるいは、意見がなくて流されているだけ、とか・・・。

次世代の子供達には是非、この日本人のよさと、それから自分の思っていることや、やっていることがきちんと表現できるような部分を持ち合わせて欲しいなと思っています。

まだまだいろいろ勉強することがたくさんある私ですが、どうぞよろしくお願いいたします。またお邪魔させてくださいね。

とうはん さんのコメント...

chibimikan71さん、初めまして。
拙い文章、最後までお読みいただきうれしいです。

私立はまだ生徒が来なくなると失業するかもしれないのでそれなりに頑張っていますが、公立に至っては害悪の垂れ流し状態です。いじめも不登校もすべて原因は学校だと思います。アンスクールしている息子を見ていると、学校さえなくなれば子どもたちはみんな幸せになれるのにと思ってしまいます。
これからもぜひ寄って、コメントをください。コメントいただくとエネルギーが出てきます。

銀龍 さんのコメント...

chibimikan71 さん、ようこそ~!!ハッピープチアンスクール!!CAのようす色々教えてください!

そうそう、ところでこちらは公立でも学区外に通えるので、学校側は生徒の数を維持するために、大変らしいですよ。生徒の成績が悪いと、予算が回ってこないんですって。
見知らぬ男性に「私はH小学校の教師です。わが校は良い先生をそろえています。気が変わったら是非お子さんをH小へ。」と言われたことがあり面食らいました。
また公園でホームスクーラーと遊んでいたら、これまた見知らぬ女性に「何で最近はホームスクーラーがこんなに増えてるの?私は教師なんだけど、あなたたち親はそんなに学校がダメだと思ってるの?」とヒステリックに怒鳴られたこともあって、ビックらしました。
先生たちはホームスクーラーを敵視しているようで、おもしろいです。
先生も大変ですね。

とうはん さんのコメント...

面白いですね。アメリカでは見知らぬ人にいきなりそんなこと言うのですか。それはビックらしたでしょう。日本じゃそういう言い方はしませんが、重箱の隅をつつくようにねちねちと締め上げてくるそうです。うちの近くは学校へ行かない子どもが少なくないので、そういうトラブルはありませんでした。でも理解できないとは言われました。
子どもたちがみんな学校に来なくなるといらなくなるので、教師(と教育産業の人たち)がホームスクーラーを目の敵にするのは当然でしょう。私達はその巨大な産業を相手に闘っていると言えなくもありませんね。

chibimikan71 さんのコメント...

またまたお邪魔いたします。

とうはんさん、
日本に住んでいるときに仕事上、学校生活に疲れている子供たちと接する機会が多かったたのですが、みんな本当に子供なの??キラキラしていないな~と思いながらみていました。私立ならまだ、いろいろ新しい試みができたり、先生を入れ替えたり・・・と手を打てますよね。(でもそれでも本質的には何も変わらないとは思いますけど)それに比べて公立は、体質が保守的すぎますよね。今回の給食事件にしても、教師一人ひとり、校長一人ひとりがきちんと意見を持って声をあげれくれたら世の中変わるだろうに・・・と思ってみています。

銀龍さん、

こちらでもよろしくお願いいたします~。アンスクールに関する学びが一気に深まって、とても嬉しいです。お導きありがとうございます^^

教師のホームスクーラー敵視は、絶対にあると思います。私も直接ではないですけど、そういう場面に出会いました。
子供達の通うプリスクールで、あるファミリーがチャータースクールを始めたいということで、賛同者を募りました。そして、希望者を集めてホームスクーリングに関するワークショップを行うことになったのですが、そのときに同じプリスクールのメンバーファミリーのいくつかが(メーリングリスト上のファミリーは卒業生も含むのです)ものすごい勢いで反論メールを送って全員に流しました。アメリカ人は本当に極端だな~と思った一件でした。そして、面白かったのがそのメールを書いた人々は、自身が教師であったり、リタイアした教師だったり、必ず学校関係者でした。彼らの言い分は、教師も一生懸命やっている、とか学校によっては親達が本当に一生懸命になってサポートしている、とか挙句の果ては生徒が少なくて困っている学校の子供たちを見捨てるようなことはしてはならない・・・とか。分かってないな~と思いながら読みました。
学校という組織の中にいると、外側からの学校の姿が見えないんですね、きっと。

ところで、銀龍さんのところは学校が選べるんですね。競争させて、質を上げようということでしょうか。
私の住むところ周辺は、道路一本挟んで別の郡になるのですが、そちら側ではかなり広いエリアにもかかわらず、最寄の学校に行けるとは限らないそうです。市から指定された学校に行くことになるみたいで、知り合いはせっかく治安の良い高級住宅外に引っ越したのに、振り分けられたのが海側に近いエリアだった・・・とこぼしていました。

私の住むエリアは、厳格に学区が決まっていてネットでも地図が検索できるようになっています。なので、評判の良い学校に行きたいという理由で引っ越す家族もたくさんいるようです。なんだかこういうことで悩むのはもったいないように思えるのですけどねえ・・・。

とうはん さんのコメント...

chibimikan71さん、日本の子どもは本当に疲れています。あまりにも小さい時から習い事や勉強に追いまくられて、多様な価値観に触れることなく育っています。大人だって、息抜きに酒を飲んだり遊んだりしているのに子どもが子どもの時期、遊んでいないと人生を楽しめなくなると思うんですがねェ。
それにしてもアメリカは地域でルールが変わる国なんですね。