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2017年11月8日水曜日

いじめを考える

いじめはいつでもどこでもあるわけではない。いじめは基本的にその場を逃れられない状況でしか起きない。息子がいまいるスクールでいじめはあるかと聞くと、「からかわれることはあるが、いじめは聞いたことがない」と答えた。

日本では学校でも会社でもいじめがあふれている。サービス残業もブラック企業も同じだ。学校の先生も学校からいじめられているし、ニートやフリーターは日本社会の弱者へのいじめと取れないことはない。その根源に学校制度の歪が潜んでいる。

先ず学校制度、そして教師、さらにクラス、最後にいじめることいじめられる子と解決しないと、表面を糊塗しているだけで解決には至らない。しかし、一般にマスコミや保護者からはいじめることいじめられる子の間の矮小化した問題とされることが多い。
実際に子どもの自殺では、いじめがあったか否かの点が問題になっているが、主たる原因はいじめより学校の方がはるかに多い。

必ずしも楽しいとは思えない勉強を否応なく強制された子どもが、学校嫌いになっても親から登校を強制され、逃げ場の失った子が自分より弱い存在に鬱憤を晴らす行為がいじめであると理解している。
この構造は学校と教師の間にも存在している。サービス残業を強いられ、成績不良の責任を負われる教師は、露骨に「指導死」まで至るのは論外だが、多くは授業についてこれないまたは邪魔になる子どもの存在に対し、不快感を感じる。それを敏感に感じることができる子どもが「いじめてもいい存在」として先生の代理としていじめに走る。これがいじめの本質だと思う。
子どもは大人と同じでそれぞれが個性的であり、先生の意図通りできない子と、先生の意図を敏感に感じてそれに雷同してしまう子がいる。さらにはそのいずれでもない子は傍観者になる。ごく例外的にいじめを止めさせる子もいるが、それは先生の意図と異なるため、いじめられる側になることが多い。

つまり、学校と教師が意識的か無意識化はともかく、いじめを構成する主たる要素になっていることに、無自覚なことがいじめが解消しない最大の問題である。

私は小学生時代は勉強をせずに遊んですごし、そのため小学校は保育園として子どもたちを見守ることに徹し、聞かれたことには適切に指導するが、本人の好きに過ごさせた方がいいと考えている。
そうすると多くの子は一緒に遊ぶことに夢中になる。遊びはコミュニケーションと創意工夫の宝庫だ。遊ぶためには協調性が欠かせないし、そのために主張することと妥協すること、相手の所作の先読みをすることを学ぶ。
一方的な授業と違い、試行錯誤を思う存分できるから、ものごとの本質を理解できるようになる。独創性は机上の空論ではなく、本質からのみ生まれるのだ。
また年齢を超えて遊ぶことで、幼くて一緒に遊べない子にも役割を振ってあげるような思いやりを持つようになる。そこではいじめは発生しようもない。これは江戸時代の寺子屋と同じである。

教育の遅れを心配する人もいるが、16歳まで全く勉強せず遊び惚けてて、漢字が読めず、足し算もあやしい子どもが、ある日大学に行きたいと言い出し、半年間集中して勉強して高認を取得し、余裕で希望する大学に入学した例も実際にある。大人になって16歳まで文字が読めなかったと言ってもだれも信用してくれないそうだ。

いじめを受けたら、学校から逃げることを薦めるコメントに対し、逃げると教育や学歴で不利になるというメッセージをよく見るが、もはや学校の教育は時代の趨勢にとり残されている。次の時代に大事なことは自ら考えだして、他人と協力して事に当たることで、知識ではない。そのいずれも学校では否定されていることに思いを致すべきだ。

今の学校は寄ってたかって、勉強嫌いを作り、自信を喪失させるために先生が苦労しているとしか思えない。

いじめは吹き出物であり、塗り薬は役にも立たない。その真因は内臓疾患にある。

2017年10月28日土曜日

学校から目覚めるとき

メガバンクの一角であるみずほフィナンシャルグループが今後10年程度で国内外1万9000人の人員削減を検討していることが分かった。金融と情報技術(IT)を融合した金融サービス「フィンテック」の広がりで銀行以外の新興企業が台頭し、事業環境は厳しくなることを予想し、先に手を打ったところだ。(読売新聞より)
人員整理をしないことを約束して台湾、鴻海(ホンハイ)精密工業がシャープを買収したがその約束はあっさり反故にされ、すぐ黒字転換した。

大企業に入社しこれで定年まで安泰と考えていた正社員はいま何を考えているのだろうか。有名大学を卒業し、大企業で安定した人生設計を考えて、受験勉強に励んでいる人たちは考え直した方がいい。

零細企業のわが社も少なからぬ人を採用したが、大卒より高卒の方がよほど働くし、頼りになった。応募に来た人に何ができますかと聞くと「部長ならできます」と言われた時は、こんな人が本当にいるんだと呆れてしまった。入社しても大卒をひけらかす人に限って、ほとんど仕事の役に立たなかった。

大卒はほとんどが中大企業に入社するが、有名大学を卒業した人が各部署を転々として出世していくのが通例だ。だから昔から移動をしない高卒女子の方が現場知識が豊富で、数年で移動していく人はいわゆるお局さんに依存し、業務を理解しようともしない人が多い。そういう人がいずれ経営陣に入る。頭はいいが現場をきちんと理解していないから、机上の空論を振り回して現場が疲弊していく。
その結果が、日本の大企業の偽装につながっている。

前回も書いたが、彼ら学校では秀才で通した人たちである。遊びもしないで塾に通い、テストに好成績を上げて、先生からも親からも周囲からもちやほやされ、変なプライドばかり高いが、コミュニケーション能力はほとんどゼロだ。そういう人で日本の経済界は成り立っている。(原発産業もしかり)

しかし世界はITやAIで急展開をし始めている。2045年のシンギュラリティを待つまでもなく、仕事は次々とコンピュータに奪われ、二つの分野が残るだけになるだろう。

第一はコンピュータに指示する分野、第二ははコンピュータでは対応不可能の介護などの分野。そして第二の分野は次々なくなっている。最初に挙げた銀行も第二の分野である。少し遠いが第一の分野もいずれコンピュータに侵食されるようになるであろう。

英文の文書を読むのに苦労して、グーグルの翻訳ページ(無料)に入れてみたら、まっとうな日本語が一瞬で出てきた。2年前には原文を見比べないと意味不明な日本語だったが、昨日やらせて見たらほぼ完ぺきな日本語になっていて唖然とした。2年前はこれだけの翻訳を頼むと数万円していたのが0円、わずか2年で「隔世の感」である。科学関連文書に関しては翻訳業が成り立たなくなる日が見えてきた。英語の授業なぞ全く役に立たなくなってしまう。

第一分野の旗頭、ジョブズは大事なことは「情熱」と「想像力」だと言ったが、学校では情熱を持ては多動性障害と言われ、想像力は注意力散漫とみなされ、画一化の罠に落ちる。学校というシステムの指示通りに動かない子どもは排除され、指導死やいじめ、そしてその先のブラック企業や過労死につながっている。こうやって日本の子どもたちはスポイルされ自らの人生と、日本の未来を破壊しているのだ。

天動説を信じられていたころは、地動説を主張した人は火あぶりに刑に処せられ、物笑いの種になったが、今は地動説が常識である。学校が諸悪の根源であると言えば火あぶりに刑に処せられる時代ももうすぐ終わり、笑い話になる時代が来るだろう。

2017年10月27日金曜日

日本が劣化しているわけ

JAPAN CLASSという雑誌を書店で見るたびに悲しくなる。日本人はいつからこんなになってしまったのだろう。世界を見渡しても自分の国のことをこんなに自慢している雑誌は日本以外では見たこともない。雑誌だけでなくテレビもそのような番組を流しているようだ。幸か不幸かここ10数年、あまりのくだらなさでテレビを見なくなったのでよく知らないが、たまに出先で見るバラエティ番組を見ると吐き気がする。

日本の政治がひどいというのは何十年も言われてきたが、経済だけはよかったがここ10年ほどで完全に崩壊した。東電の原発事故、東芝の崩壊、シャープの買収、半導体の凋落、日産の買収、三菱自動車の不正、神戸製鋼の不正と数限りない。
官僚は何かあっても知らぬ存ぜぬばかりで何ら責任を取らない。
自民党は一強でだれも異論を唱えない。民進党もどっちを向いているかさっぱりわからない。挙句の果てに希望の党に合流して消えてしまった。詳細は選挙総括

私は何度も主張しているが、原因の多くは学校にあると思っている。

明治維新が起きてそれまでの幕藩体制が崩壊し、支配層が一掃され、若い人たちが飛び出してきた。彼らが新日本を切り開いていったが、70年ぐらいたつと勤皇の志士は鬼籍に入り、とってかわって学校秀才が政治経済軍部を支配し始め、それまで急成長していた日本は暴走し第二次世界大戦で焼け野原にするまで止まらなかった。ちなみに東条英機は陸軍士官学校で有史以来の超優秀で総代だったそうだ。(そんな優秀な奴が首相になって日本を焼け野原にしたんだ。)

戦後財閥解体などで支配層が一掃され新しい人たちが飛び出してきた。松下幸之助、本田宗一郎などは学歴もなく世界企業を築き上げた。しかし70年たつと彼らの多くは鬼籍に入り、そのあとは再び学校秀才が経済、政治の世界を牛耳るようになった。そしてバブルの崩壊後30年にわたり停滞し、世界第二位のGDPが今や一人当たりのGDPは世界の30位あたりでじりじりと下げ続けている。東芝、シャープ、ソニー、日産いずれも戦後50年を超えたころから不祥事や赤字の垂れ流しが常態であった。

つまり、明治維新も戦争も知らない世代が企業の経営者や官僚や政治家の頂点を極めるとお衰退を始めている。彼らに共通しているのは全員学校の秀才であるということである。

学校では先生の言うことを信じてそのまま答案用紙に書けば満点をもらえる。先生の覚えもいい。受験にも有利だろう。それに対し、先生の言うことや教科書に書いてあることに疑問を持っても時間は無駄だし、成績もよくない。質問を繰り返すと授業が進まないので先生から好まれない。

子どもには二つの選択肢しかない。
Aは先生の言うことをとりあえず信じて疑わないようにして好成績を上げる。
Bは先生に逆らい、授業に反抗する。その結果は先生から疎まれ、嫌われ、ほかの生徒からはいじめられる。その結果不登校か自殺に追いやられる。

Aはいい成績を上げ、いい学校を優秀な成績で卒業して、何の疑いもなく大企業か官庁に就職する。そして○○大学卒業という学歴で出世していく。
しかしいつも正解のある問題を解くことしか知らないので異常事態になると対応ができずに右往左往するだけで解決不能になることがある。福島第一原発事故の時の東電や官僚の対応を見ればよくわかる。

戦後経済の成長期はアメリカという正解が常に前にいたので、それをいかに早く取り入れるかだけ考えていけばよかった。アメリカもソ連という対抗軸があるときは日本のおんぶ抱っこを許していたが、それが崩壊すると日本を敵対視するようになった。

アメリカから突き放され日本は自分で自分の道を探さないといけなくなった。そのころ戦後復興期を支えてきた戦後創業経営者が引退する時期と重なってきた。入れ替わり登場したのが学校秀才の人たちである。

東芝は原発事業が東日本大震災の結果、失敗だと分かった時点で撤退すればここまでひどくならなかったはずだが、売り上げをごまかす道を選んだ。シャープも日産も三菱自動車も神戸製鋼も成績をごまかす道を選んで墓穴を掘った。学校成績至上主義に対し学生として勉強とカンニングのどちらが楽かという問題と同じである。

明治維新の改革は問題をごまかしてもどうにもならないということが分かっていた勤皇の志士の死に物狂いの文明開化であったし、戦後焼け野原の中で地に落ちた日本の経済を立て直すにはやはり死に物狂いの製品開発と世界への販路開拓だった。嘘をついたりごまかして何とかなるものではない。事実をもとに徹底的に顧客満足を求めた。その成果がソニーであり、ホンダである。
そうやって死に物狂いの努力の傍らで、日本の学校は成績至上主義で決まったことを決まった通りに覚えればそれで事足れりとしていた。そうやって少年時代を覚えることで成功体験を積み重ねて好成績を上げてきた人たちがいま日本の支配階層に陣取って日本を泥沼に引き込んでいる。

一方Bには成績不良として劣等感を植え付け、就職も出世も不利を強いられ、非正規雇用として低収入の泥沼にあえぐことになる。そこから抜け出すための努力の方法も知らない。

AやBの一部が自ら意識改革をして泥沼から抜け出すことができるが、日本の場合既存大企業の既得権が強すぎ、日本の未来を変えるほどの力を持てるものは少ない。

これで日本がよくなるはずがない。我々は先代が積み上げてきた資産の上で理屈をこねまわしているだけなのだ。その資産はあと20年ほどで食いつぶされ発展途上国に分類されるだろう。

これを解決するには学校を解体するしかない。近代になって、工場で人が並んで作業するとか、大勢の軍隊が戦うために意識改革するために学校を作った。今はオートメーション工場には人が数人しかいないし、軍はコンピュータで近代化されていて頭数がいても戦えない。命令一下そろって作業することもない。次の時代の仕事は高度な知識を駆使するか、誰でもできる単純作業しかない。

幼少時に特に大事なことはコミュニケーション能力だ。特に小学生の時は朝から晩まで友達と遊んでいたほうが力が付く。昔から子供は遊びを通して社会性や正義感、交渉力、創造力を育んできた。知識に関していえば小学校時代遊び惚けていた子が中学生になってから小学校の教科書を開いて勉強をしたら半年ですべて理解できたという実験結果もあるそうだ。

小学校は即刻なくし2歳から12歳まで保育園とすればいい。中学からはアクティブラーニングなどを活用し、さらに入学も退学も転校も自由、テストはすべて廃止すべき。そうすれば日本の子どもたちは地力があるから、世界有数の知的レベルにすぐ到達できるようになるだろう。
これからのAIの時代を豊かにするためには、強制は害悪にしかならない。

学校へ行くことで子どもたちは自信喪失になり自己を確立できず、それを何とか補償しようと自分の意識を日本にまで拡大し、日本最高ということで自信を持てない自分をごまかしているのだろう。確かに世界を回ると日本の安全や清潔さは世界でも有数だとは思うが、どの国にもいいところがあり、困ったところを抱えている。日本は世界でほぼ唯一経済力が低下している先進国で、先達が多少たくわえを作ってくれたのでかろうじて現状を維持しているだけだ。子どもの5人に一人が貧困児童と言われるようになった現実の厳しさを認識すべきである。

2016年11月22日火曜日

ホームスクールの学び

子どもと一緒に育ってきた。

0歳の時、家のテレビを捨てた。

小さい時から絵本を次々買っては読んであげていた。
子どもはみんなそうなのかもしれないが、同じ本ばかり何度でも読ませる。
こっちは「またかよ~~」とめげていたのが今となると懐かしい。

おもちゃは木製の電車レールが大好きだった。
面白そうだと思って買ってきてもほとんど遊ばなかったものもある。
少し成長してから、嵌ったのはカプラだった。
友達が来るたびに部屋中に広げて遊んでいた。

乾物屋でいろんな豆を沢山買ってあげたら
それを毎日部屋中にまき散らして遊び、片付けが大変だった。

息子が1歳半ぐらいで歩いて言葉もできるようになったころ、
出かけるとき電車の駅、階段の前で二つから選ばせる
私「階段にする? エスカレーターにする?」と聞く
息子「エスカレーター!」
半年後
私「階段にする? エスカレーターにする? それともエレベーター?」
息子「えーと....階段!」
三つのうちから選ばせる。
という風に、自分のことは自分で決めるように持って行った。

2歳のころGAPに息子と一緒にTシャツを買いに行った。
似合いそうなシャツを探して彼に見てもらった。
でも鏡がないとわからないので鏡を探した。
ところがKIDS売り場に鏡が見当たらない。
そこで店員に鏡はと聞いた。
店員は、鏡はKIDSにはなくて、大人の売り場にありますと答えた。
何でないのと聞くと、
子供の服は親が決めるので誰からも聞かれたことがないと言われた。
大人の売り場で息子にあてて見せたら、
息子は、違うのがいいと言って、別のシャツを持ってきた。
凄い派手で、驚いたが買ってあげた。
結構似合っているのでもう一度驚いた。
みんな子供の服は子どもに選ばせないんだと思った。

2歳から4歳まではモンテッソーリ幼稚園に通っていた。
毎日、幼稚園で自分で選んだ教具を使って自分が満足するまで遊ぶ。
先生は一番最初にやって見せるだけであとは一人でやっている。
守らないといけないのは自分がやりたい教具をほかの人が使っている間、
終わるまで、横に座ってみていないといけないこと。

4歳になった時、仕事の都合でサドベリースクールに転校した。
そこでは勉強はしないで朝から晩までただひたすら遊んでいた。
みんなと毎日のように氷鬼をやっていた。
ある時そんなに氷鬼ばかりで面白いのと聞いたことがある。
むすこは「毎回違うんだよ。」
「昨日、こうやったら捕まえられたとするだろ、」
「次の日、相手は変えてくるんだ」
「こっちも、変えてくるだろうと予測してその裏をかこうとする」
「さらに相手はそのまた裏をかいてくる」
「常に状況は変わるんだよ」
「だから、いつも新鮮で面白いんだよ」
私、「なるほど」

これって、実社会と何ら変わらないじゃないか。
子どもは遊びの中から社会の仕組みを学んでいくんだ。
遊ばないで教室で座って勉強しても、こういうことを学ぶことはないだろう。

家では歴史漫画と科学マンガが好きで毎日繰り返し読んでいた。
文章(漢字)の読みは歴史マンガで覚えていた。
三国志が大好きで全巻古本で揃えた。

6歳の入学前に小学校の教室見学会があり妻と二人で出かけていった。
返ってきたのでどうだったと聞くと
息子「つまらなそう」
私、「なにが?」
息子「みんな前を向かって座っているだけで、誰もしゃべっていない」
「あんなの嫌だ」
私「それで、どうする?」
息子「学校へは行かない」
私「そうか」
息子「ドラえもんを見ても、いじめっ子がいたりつまらなそうな宿題をしている」
「どこがいいかわからない」
私「そうか、行きたくなければいかなくてもいい」
以来、息子は絶対に教室に行こうとしなくなった。
新年度ごとに
私「一度ぐらい行ってみたほうがいいんじゃないか。」
「みんな学校へ行っているから、大人になった時授業を受けたことがない。
では話題に困るんじゃないか」と言えど、「いい」と答えていかなかった。

勉強は私が教えていた。
教えた時間は週に4回ぐらい、1回15分程度。
主に算数(数学)、国語(漢字書き取り)

4歳になって算数(割算)はこうして教えた。
ここにイチゴが6つあるとする。
お父さんと二人なら、一人何個になる?
息子「3こ?」
私「そうだ」
私「そこにお母さんが来た。」
私「『私の分は?』と聞いてきた、やばいね」
私「じゃ、何個ずつにすればいい?」
息子、しばらく考えて「2個?」
私「そうだ、6÷2=3 6÷3=2、と書く。これを割算という」
息子「なるほど」
私「じゃあ、12個ならどうなる?」

これで割り算は終了。

どうせ自然に覚えるから九九は覚えようとしなくていいと言った。
8歳ぐらいまでいくつか怪しかったが、今は全部間違えなくなった。

息子の到達レベルを見て
ほんの少し難しいと感じるあたりを狙って質問を投げる。
簡単に解いたら、さらに難しくする。
解けないと、少しレベルを下げてまた質問。
分かるところまで下げて、分かったところから少しずつレベルを上げていく。
できれば、最初に投げた質問のところまで戻っていく。
解けたらそれでおしまい。復習も予習も宿題もなし
子どもがもっとやりたがってもやらない。

何日かしてさらに難しい問題を投げる。
これを少しずつ繰り返していく。
図形(幾何)も同じ方法で立体まで覚えた
算数(代数)は2次方程式まで行った
そこでイギリスに行って終わり。

よく「漢字しりとり」をやった。
私が漢字を書いて、その部首を使った別の漢字を息子が書く、
息子は漢字辞書で探してもいいとして二人で延々と続ける。
息子は面白がって何度もやりたがった。

教えたとき気を付けていたこと、
金輪際、絶対叱らない
そして基本的に怒らない。けっして怒鳴らない。
息子を一度も叱ったことはないが、怒ったことは数回ある。
そういうときは、「お父さんは怒っている/困っている/悲しい」という。
本心から嬉しい時は褒めるが、無理して褒めない。

基本的に親子といえど対等の関係だから、
息子が嫌がったらやらない。私も嫌ならいやだという関係を保つ
叱ると親子の間で上下関係が生まれる。
結果としてどうしても無理強いしてしまう。
楽しくないと学習効果は上がらないと思っている。
さらに、それを無理するから怒鳴ったり、叩いたりする。
結果的に学習効果がないだけでなく、親子の関係も冷たくなる。
叱ることは百害あって一利なしである。

そして今。
毎年小学校の教科書はもらってくるが、
息子が一通り見て、どれも簡単すぎと言って二度と見ようとしない。

小学校の授業は全員が同じことを同じ時間にやる。
それでは早い子はつまらないし、遅い子はついていけない。

どんな親でも一日15分なら教える時間はあるだろう。
それで普通なら小学校で教えるぐらいのことは学べる。

なんであんなつまらない授業をみんなで受けないといけないのかわからない。
基礎部分だけ親が教えてあげれば、あとは自分で考えて学習すればいい。
そのために自分の道を自分で選ぶという習慣をつけておくことが必要だと思う。

自分で勉強するようになればユーチューブでいろいろ勉強できる。
最近https://www.youtube.com/watch?v=LKGI4CyAcNwを見て感激した。
大学の授業もインターネットで公開されるようになった。
無料で受けられて、優秀だと大学から呼ばれるそうだ。
本当に大事なのは学歴ではなく実力だと思う。

8歳になり、私が教えているだけでは不安を感じ始めた。
アメリカなどいくつかの学校を三人で見て歩き、
最後に見たサマーヒルスクールで本人にどうすると聞いたとき
息子は「おそらく…」と答えた。

9歳の春一人でイギリスに発っていった。
2年半たち一年の3分の2は寄宿舎にいる。
授業料も高いしそろそろ帰ってくるかと聞くが、絶対に行くと。

息子とのやり取りはだいぶ少なくなっているが
彼は私との学習の中から自分なりに必要とする授業を自分で選んで受けている。
英語、数学、IT、ドラムは受けているらしい。
(サマーヒルでは授業を受けたくなければ受けなくても一向にかまわない)

イギリスはMathのレベルが低いと文句を言うので、
もっと上のクラスに変えてもらえばと言うと、
英語が分からないからいいと答えた。

今年の夏家族でヨーロッパを旅行してまわった時彼の英語の素晴らしさに舌を巻いた。
(はじめは私が教えてたんだけどね)

遊びと勉強と分けるのがそもそも間違えで、
遊びを通じて学ぶ、学びの中に遊ぶというか、

子どもが生きるということは遊びも学びも混然一体じゃないかと思う。

2016年11月19日土曜日

2045年問題

いわゆるシンギュラリティである。

シンギュラリティとは
技術的特異点(シンギュラリティ)とは、未来研究において、正確かつ信頼できる、人類の技術開発の歴史から推測され得る未来モデルの限界点を指す。簡単に言えば、「シンギュラリティ」とはコンピューターの知能が人間を超える現象、またはその瞬間を意味する言葉。(Wikipedia)

グーグルの自動運転技術は実用化直前まできている。タクシーやトラックの運転手はいらなくなるだろう。人間の運転が禁止される時が来るかもしれない。

グーグル翻訳はかなり使えるところまで来て、実際にヨーロッパで使ってみたが、時間はかかるが短文ならほとんど問題なく使えた。帰国後バージョンアップされかなり長文でも理解可能なレベルになっている。通訳はいらなくなるだろう。


チェスも将棋も囲碁もコンピュータにすでに負けている。

裁判もコンピュータのほうが正確で公平に判決をかけるのではないかと言われている。


また耳にはめるだけで使える翻訳機Pilotが近く発売される。

人工知能はかなり実用的になってきていて、2045年より前に実用化されるだろう。

コンピュータは
  1. 寝ない
  2. 忘れない
  3. 死なない
の3要素からして劣化することはありえない。

さらに、コンピュータ同士のデータの伝達も間違え、勘違いがない。
そして、コンピュータはどんどん細小化し見えなくなる。
必要な知識はメガネか、イヤホンまたは脳に埋め込まれたコンピュータが
直ちに知らせてくれるようになるだろう。


知識のあるなしは問題にならない、
私たちの子どもはそういう時代を生きていくことになる。
そういう時代に何が必要かといえば知識ではない。


情熱と創造力だ。
どんなにコンピュータが進化してもこの二つは簡単には実現できない。
(少なくとも今の子どもたちが生きている間は)

にもかかわらず、学校は相変わらず知識の伝達に全力を傾けている。

正確に言えば文科省はそのことに気が付いているようである。
このままでは日本は世界から置いてけぼりになるという危機感はある。
にもかかわらず、教師や教育関係者には危機感がうかがえない。
さらに親である大人にも危機感がない。

その原因の一つが知識の断片テストである大学入試である。
ゆとり教育はその目的は正しかったし、成果もあったが、
大学をそのままにして小中学校を改革しようとしたがゆえに潰された。
そのため、今回は文科省は大学入試の改革に乗り出した。

しかし、そのことの意味を教師も親たちもまだわからないようだ。
相変わらず従来通りの内申書と受験塾に邁進している。

その結果がいじめ問題である。
虐めは閉鎖空間かつ価値観を強制するところに生まれる。
この小中学校において教師や学校が持つ斉一的空間が、
子どもをして環境隷属の精神を作り上げている。
それによって追いつめられてしまう子どもがより弱い子をいじめることで晴らし、
虐められる子は教師と虐める子の双方によって追いつめられる。
というよりいじめっ子は教師の潜在意識により操作されていると私は睨んでいる。
さらに親からの学校は行くものという常識の押しつけで、
子どもは逃げ場を失い自殺にまで追い込まれていくのだろう。

つまりいじめ問題は学校問題である。

いつでも逃げられると思えばいじめは発生しようがない。

ブラック企業やサービス残業は学校の持つ閉鎖強制環境になじんだ子どもたちが大人になっても自力で脱出させないように環境隷属精神を叩き込まれているからだと思う。

話題が少しずれたが、この環境隷属精神でシンギュラリティの時代に生き残れるはずがない。
なぜなら、環境隷属の精神では情熱も創造力も押しつぶされてしまうからである。

とにかく今は勉強しろ、好きなことをやりたければ大学に行ってやれ!
と親たちや教師たちは言うが、好きなことをやるべき時は12歳までで
18歳になるともう頭は出来上がっていて柔軟な発想は死ぬまで出てこない。

その結果が、20年も成長が止まった貧困国日本である。

だから私は子どもを学校に行かせることに反対している。
もっともいい方法はホームスクールだと私は考える。
親が子供の成長に合わせて指導できる。

短い期間であるがうちもホームスクールをやった。
その結果小学校へ行く必要は全くないというのが結論である。

ちなみに、私が教えたのは週に4日、一日15分。他の時間はずっと遊んでいた。
それでも小学校の教科に遅れることはなかった。
(そのことは改めて書いてみたい)
子どもが30人もいて、先生が個々の生徒に合わせて教えるなんて無理だ。
10人でも難しい。でも1対1なら簡単。親が教えるべきだと思う。

次善としては小学校や中学校では子どもが学校や教師を選べるといい。
教師が選択できるならうちも小学校に行かせていたかもしれない。
うちの子は現在フリースクールの寄宿舎にいる。
今息子が行っているフリースクールは子どもが先生を選んでいる。

その結果何の不都合もない。

子どもは授業がおもしろいから受けていると言っている。
先生は選ばれるために授業に工夫を凝らしている。
子どもの機嫌を取るために遊んでばかりだと、逆に見限られてしまう。


また、大学の受験を改革するのもいいが、
大学への国の補助金の在り方を変えるべきではないかと考えている。
今は学生数に応じて補助金を出しているが、これが諸悪の根源だと思う。
それゆえ大学は学生を入れて卒業させることに熱心だと聞く。
だから日本の大学はほとんど留年も中退もない。
入学さえすれば卒業はできる、だから有名校受験で猛勉強し、
在学中は遊んでいてほとんど勉強しない。
それに対し欧米の大学生は在学中に猛勉強するのでそこで能力的に抜かれる。

大学生や卒業生の書く論文の引用率に応じて補助金を出す方が良くはないか。
そうすれば、大学は研究や論文の指導に目の色を変えるだろう。
今は論文の引用数はGoogle Scholarですぐわかる。

すでに日本は貧富の差が生まれていて、貧困家庭の子は貧困を引き継ぐ傾向がある。
東大を出ても大企業の流れから外れると貧困に落ちる状態である。
今までの考え方で無難に生きていくことが無理になっている現状があり
時代の本流が激変していることに対する無理解が貧困を生んでいると言える。

トランプがアメリカ大統領選挙に勝ったが、
彼は中国からの輸入に関税をかけて仕事を増やすと言ったが、
給料が10分の一以下の国は中国だけではない。
他の発展途上国が喜ぶだけで、賭けてもいいがアメリカに仕事が戻っては来ない。
今のままで仕事を増やすには中国と同じ給料まで下げるしかない。

同じ仕事で同じ給料を払う企業は競争に負けて容赦なく倒産する。

先進国で生活レベルを維持するには生産性を上げるしか道はないのだ。
生産性を上げるためには人と違う考えを持つことでしかありえない。

>人と違う< ← これしかない。

学校をこのままにしておくと金太郎飴のような労働者を大量に生み出し、
2045年を待たずに日本は貧困国に転落するだろう。

未来に危機感を持つ人たちは子どもを学校から引きはがして
自分の責任で子どもの未来を用意している。

2016年11月1日火曜日

最近の学校

周辺でも学校に通っている小学校3年生の子がいる。
その子をAとする。

ある日教室でノートに書いた中で終わったものをマーカーを使って消していた。
すると、そばにいたほかの子Bに「いけないんだよ」と言われた。

Aは意味が分からないので、そのまま作業を続けていた。
するとBは「わかんねーのか、いけねぇんだといってんだろ」と怒鳴った。

そこでAは何がいけないのかと聞き返したところ
Bは「学校には先生から言われたもの以外は持ってきてはいけないといわれたろ。」

要は、学校では決められたもの以外は持ってきてはいけないことになっている。
筆記用具は筆箱とBか2Bの鉛筆3本、赤鉛筆1本、消しゴムと決まっているそうだ。

その中にマーカーは含まれていない。よってBはいけないんだというのだそうだ。

Aはたまたま校門でマーカーを配っている業者がいてもらったものだという。

先生が中に入って、Aはルール違反、Bは言葉遣いの問題を指摘した。

Aはマーカーを使っているところを先生が見て何も言わなかったと主張したが、否定された。

ということである。

ここで問題は決められたもの以外は持ってきてはいけないというルールだ。
それでは子どもの創意工夫は否定されていないのか。

人工知能が人間を追い越す時代があと20年ほどで来るといわれている。
その時子どもたちは大人になって社会の前線で戦っている。
決められたことを決められたとおりにやっていては人工知能に勝てないだろう。

そのとき生き残れるのは情熱と発想が人並み外れていないとならない。
それなのに10歳ぐらいから発想や工夫を殺していいのだろうか。

学校の枠にはめた教育が
ブラック企業から抜けられないとか、過労自殺をする遠因になっている。

いじめや不登校の直接的原因だ。

Aはそれにもかかわらずその中で工夫をしようとしているが、
Bは小学校の教師の指示を何の疑いもなく、率先して周りに強要している。

6歳から12歳という人間の基盤形成の時期にこのような考えをしみこませるのは
未来の日本を封殺しようとしているとしか思えない。

本来なら、持ってきてはいけないものを明確にすべきだろう。

持ってきていいものを指定するのはそれ以外を禁止するといういかにも安直なルールだ。先生は楽でいいだろうが

法律でもやってはいけないことは決めているが、やるべきことは決めていない。

やるべきことを決めているということはどこぞの独裁国家ならいざい知らず、
近代法治国家の規範としてはあり得ない。

このような学校という仕組みはすでに社会の変化に対応できていない。

そしてそれをよしとする教師や親の安直さにも絶望感が漂ってくる。



2016年10月25日火曜日

サマーヒルスクールに関する質問

お久しぶりです

息子は日本を離れて、イギリスのサマーヒルスクールに通っています。

それを聞いた人からの質問です。その人は子どもをサマーヒルに送りたいと考えていますが、家族の反対にあっています。

反対の理由は
○サマーヒルは、日本の政府から認可されてないから、日本で通用する卒業資格が与えられないので、子供の最終学歴が小学生卒や、幼稚園卒となってしまう。

○また、18歳ぐらいで日本に戻って、日本の大学に入ろうとした時、帰国子女枠を利用できて、一般の受験でなくても入学できる可能性があるのでしょうか?(むしろ有利?)

○最近の日本人のその後の人生(大学、職業、就職・・・)などがお分かりになるようでしたら、教えてください。


まず、学歴ですが、幼稚園卒とか小学校卒にはなりません。一般的には中学までは義務教育ですから、学籍があれば全く学校に行かなくても中卒にはなるはずです。
ただし、中学校の校長の判断によりますから、もしかすると小学校卒になるかもしれません。

それでも、高卒認定試験を受けて合格すれば、高卒同等になり、専門学校や大学の受験資格ができます。高卒認定は中学の教科書を理解できれば合格します。大学によりますが、東大や慶応を受験するなら尋常でない努力が必要でしょう。ただし、帰国子女枠が使えれば有利になるでしょうが、それでも受験は必要になると思います。その点は大学に聞いたほうがいいと思います。
どの大学でもよければ英語の点数が高いはずなのでよほどでなければ合格するでしょう。

それに、日本に戻らずにそのまま英国やアメリカなどの大学を受験する手もあります。
オクスフォードやハーバードに入るのは大変ですが、日本から受験するよりは可能性は高いと思います。それ以外の大学なら、出生届けがあれば入学できると言っていました。ただし卒業は難しいのが西欧の大学です。

日本の地方公務員は高卒以上ですから、そこを目指すなら日本の高校に行くべきでしょう。

一般企業も学歴を高卒以上としているケースは多いですが、ほとんどの会社は何となくそうしているだけで、学歴が中卒だろうが、無学歴であろうが、役に立つ人であれば採用します。

私の知り合いの女性で高校在学中に妊娠し中退し、色々あってやがて広告代理店に自分が描いた漫画を持って行ったらその場で採用になった人がいます。今はそこで課長になって、年上の部下を使って仕事をしています。


卒業後の後の人生としてはそれほど多くは知りませんが、一例をあげると

◎イギリスでプロカメラマンになった人
◎英語を生かして沖縄で米軍基地に勤めた人
◎英語と海外の交友関係を生かして、旅行代理店に就職した人
◎日本企業の海外支店で採用された人
◎ドイツの大学で勉強中の人
◎サマーヒルでスタッフをやっている人

いずれにしろ、日本の大学を出て新卒で企業に入社するケースに比べると異色だと思いますが、それぞれの人は自分の生きたいように生きている感じがします。

大事なことはみんな自分が決めた自分の人生だということです。

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ここ数年でチェスも将棋も囲碁も全部コンピュータに負けました。
2045年には人工知能が人間の知性を超えると言われています。

今の子どもたちはそのころ40歳ぐらいですが、学歴だけで仕事ができるでしょうか。
広範囲な知識だけではコンピュータにはかないません。
その時必要なことはコンピュータにできないことです。
人が持つ情熱、コミュニケーション能力、そして独創性です。

そういったことを今の学校が教えられると思いますか。
学校は子どもたちに一斉に同じことを同じ時間内に教えないといけません。
それぞれの能力に合わせて別々の教育ができるようにはなっていません。

私は無理だと言い切っていいと思います。
学校が教えることができるのはカビの生えかけた知識だけです。
それを後生大事に覚えていても変わる社会には対応できないでしょう。
その結果が、引きこもりや、ブラック企業や、自殺などに噴出していると思うのです。

サマーヒルスクールではすべてを自分で考えて一人で決めます。誰も指示してくれません。
そしてやりたいことがあれば自ら他人を説得し納得してもらうために努力をします。
そこに必要なことは情熱、コミュニケーション、独創性です。

彼らはそういったことを10年間かけて身に付けようとしてます。


パソコンが生まれて30年ほどしかたっていませんが、
今スマホというコンピュータを子供でも待っています。
30年前に携帯電話のある今の社会を想像できましたか?

30年先の人生は私たちに想像もできない状態になっているでしょう。
その時生きていかないといけないのは今の子どもたちなんです。
その時どんな状況でも対応できる人になってほしいと思っています。

うちの子も学歴なしで社会に出るかもしれません。
そのことをきちんと説明し、それでもいいかと確認をして送り出しました。

一つだけ大事なことがあります。サマーヒルスクールでは年齢制限があります。
外国人は9歳から11歳までしか受け入れていません。
12歳以上は入学できません。

私は大事なことは全て説明したうえで
お子さんに自分で決めてもらったほうがいいと思っています。

2016年6月15日水曜日

もう我慢できない

シャープ、東芝、ソニー、パナソニック、一世を風靡した日本の家電メーカーがこれほどだらしなくなるなど、誰が想像したのだろう。

ソニーの元技術者が特定の元社長を名指しで非難した。それは出井社元社長である。彼は最初こそよかったが、結局ソニーの骨格を変えてしまい最終的には回復不可能なほどのダメージを与えた。

出井氏は電機メーカーとしてのソニーを情報や金融や映像をも含めた総合企業にしようとした。それが一時的に売り上げの向上につながったが、結果的にソニーにとって真の財産である、技術者の好奇心や意欲をそぐことになった。

井出氏はその-の中では初めてのサラリーマン社長であり、ソニーが一流企業になってから入社した人材である。

2016年5月20日金曜日

秀才の時代

最近、Airbnbというホームページを知った。
外国に旅行に行くつもりでホテルの予約を入れていたが、ある人からAribnbと言うのがあると教えられた。調べてみたら、1泊普通であれば一万円ぐらいするのに2000円にも満たないところがある。そのうえホテルよりよほど広い。こんなに安いのに成り立つのかと心配になるが、泊まった人のレビューの評価の高いところはそれなりに安心である。普通の家庭で空いている部屋をホテル代わりに使う仕組みで比較的安い金額で借りられる。
予約を入れていたホテルを次々と解約し、Airbnbに変えていった。少なくても宿泊費が半額程度になったと見積もっている。ホテルはビジネスであり土地の人と話をしたり一緒に料理をすることは難しいが、Airbnbでは貸主(ホスト)との交流を楽しむこともできる。
他にCouchsurfingというページもあり、登録しているとお互い自宅に無料で泊まることができる。
日本でもこの流れを受けた民泊の法改正が進められているが、こういった仕組みはいつも後追いだ。

どうして日本から新しいビジネスが生まれないのだろうか?

2015年2月3日火曜日

創造力の抑圧

学校は世の中の創造的活動から取り残されている。音楽家が音楽の授業から、科学者が物理の授業から、画家が美術の授業から生まれるとか、育つと信じている人はいない。

実際学校は命令に従うことしか教えていない。やさしくて思いやりのある人々が子どもたちのために懸命になって接していても、学校と言う組織は学校の抽象的な論理によって押しつぶそうとする。
学校がチャイムを鳴らすとどれほど生徒が文学に夢中になっていても教科書やノートを閉じて英語の授業を受けないといけない。それはあたかも精神分裂病のようで、創造的活動とはかけ離れている。人は時間を忘れるほど集中しないと創造的活動は身にならない。

マサチューセッツ州のエドワードケネディ上院議員によれば、義務教育が導入される前の1850年に州の識字率は98%だったが、導入後は1990年の91%が最高だという。また、ホームスクーラーの思考力は、学校に通っている同級生より5年から10年進んでいるそうだ。考え始めると集中力を断ち切られることも、他人から評価されることもないためだろう。

学校制度は教育とは同義語ではない。学校と言う組織はホーレス・マンとシカゴ大学ハーパー、コロンビア教育大学のソーンダイクと言った人々が構想した大衆を厳しく管理することが目的であった。つまり、学校は公式通り行動する人間、コントロール可能な人間を生み出すために作られたのである。

その結果、社会は階層化が進み「支配階級」だけに自立と個性が許され、それ以外の大衆は自分の頭で考えることは望まれていない。従うことになれた人はひたすら言われたとおりに手を動かして得たわずかな稼ぎをテレビやばくちに費やすだけで、自分の頭で考えることをしない。

要するに、他人に対しても、自分に対しても、役に立たずに生涯を過ごすのだ。

こうした悲劇の原因は、ポール・グッドマンが言ったように、ばかげた学校制度にある。同じ年齢、同じ地域の人をまとめて監禁するような制度に従うことは、人生を台無しにすることに他ならない。それは人間のあらゆる可能性を奪い、人々を過去や未来から切り離して、ただ連続する現在にとどめようとするものだ。

情報化がこれ以上進めば極少数の支配階級と少数の未来への開拓者(科学者、芸術家、実業家)以外は、現在に生きることに精いっぱいになるだろう。未来を生み出すのは空想力であり、集中力だ。学校はそのいずれも押しつぶすことに夢中になっている。

チャイムの音で集中力を断ち切って教室を移動させ、プライベートな時間にまで踏み込んで「宿題」をやらせようとし、テストの成績という単純な記憶力でふるい分けをする学校。そんなところで伸び盛りの子ども時代を過ごさせるのは実に愚かなことである。


2015年1月31日土曜日

自尊心の破壊

いつも叱られている子はいつも誰かに叱られないかおびえている。そういう子どもはコントロールがしやすいので、他人の言いなりになることが多い。でも親から無条件に愛されている子どもは自尊心が強く人のいうことに無条件に従わない。

しかしそういった自信家ばかりいると先生は教室を維持できなくなる。そこで教師は子どもの自尊心をつぶすために評価を使う。そうして子どもに自分の価値は自分ではなく、専門家による評価に左右されるということを教え込む。

それでも教師に従わない時は学校は子どもの両親に成績表で点数や生活態度を報告する。評価が低い子の親は進路に響くことを怖れて子どもに教師の価値観に従うように教えたり、叱ったりする。その結果、子どもは親を信じるよりも教師の権威に従うべきだと思い込むようになる。

これは企業が消費者に不満を抱かせ、そこから需要を掘り起こすのと似ている。こういった教師の客観的(に見える)評価の積み重ねにより、子どもの自尊心は大きく左右され、自分の未来は他社の評価にかかっていると考えるようになる。

自己評価はビジネスや哲学の世界では重要な要素であっても、学校教育では全く問題にされていない。

自分にどれだけの価値があるのか、それは他人が決めることであり、自分の評価を自分がしてはいけないのだ。

2015年1月24日土曜日

授業の自由選択

10歳になる息子は教室や学校が嫌いだ。
小学校に上がるとき学校へは絶対行かないと言い張っていた。
学校の体験教室を後ろから見て「つまらなそう」と言った。
どうしてと聞くと「みんな座って聞いているだけ」と答えた。

私が学校嫌いだという点もあり、親の影響を受けているのだと思っていた。
ところが学校なんか行くとバカになると言っていた友人夫婦がいるが、
その3人の子どもはみんな親の反対を押し切って学校へ通っている。

親の影響はないとは言えないが、それほど大きいわけでもないと思った。

息子はしばらく地元のサドベリースクールに通っていたが問題があり辞めた。

一昨年、家族でイギリスのサマーヒルスクールまで下見に行き、
息子の決断により去年の4月からそのスクールに行くことにした。
今寄宿舎で過ごして年に3回日本に帰って来る。

そこは90年ほど前にドイツで創立したがすぐイギリスに移転した。
今は70人ほどの4歳から16歳ぐらいの男女メンバーが共同生活している。
そこでは大人であるスタッフがメンバーの面倒見ているが、命令することはない。
スタッフとメンバーが集まるミーティングで決めたルールに全員が従っている。

授業は毎日行われていて、どれを受けるかはメンバーが選ぶ。
だから、クラスにはいろいろな年齢の子がいて、
それぞれ違う内容を教わることもあるらしい。

全く授業を受けなくても構わないから毎日遊び歩いているだけの子もいる。
ただ、ミーティングの決定により、昼間はテレビゲームの類は禁止されている。

息子は今卓球とビリヤードに夢中だそうだ。

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息子に勉強しなさいと言ったことは一度もない。
勉強に限らず、何でも強要したことはないが、やってみるかと聞くことはある。
ロボット教室行ってみるかと聞いたとき行ってもいいと言い通い始めたが、
3か月たって「もういい」と言って行かなくなった。
理由を聞くと「つまらん」だった。
要は、クラスが年齢分けされていて、面白そうなことができないということだ。

サドベリースクールでは勉強をしないので、私が教えていた。
本人がやりたいと言うまで待って、週に1~3回ぐらい30分ぐらい。
他の時間は友達と遊ぶか、パソコンでゲームをやっている。
それでも同じ歳で学校へ行っている子よりかなり先のほうまで教えていた。

息子は決して天才でもなく、頭がいいわけでもない。
本人がやりたいとき、やりたいことを教えていれば実によく覚えるということだ。

一般に10歳ぐらいまでは体を動かすことで学ぶ。
大人と違い、じっと座って聞いたことはなかなか覚えられないのだ。
友達と走り回りケンカした後に聞く知識は海綿のように吸収できる。
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年が明けて息子はまたスクールに戻っていった。
昨日息子からスカイプが来て話を聞いて驚いた。
授業を5つ受けていると言うのだ。
英語が3つ、数学が2つだ。しかもそれを英語で受けている。
面白いのと聞くと「楽しい」と返ってきた。
あんなに教室が嫌いだった息子が「授業が楽しい」と言うのだ。

自由意思で学ぶことは楽しい。
教える側も、子どもに嫌われたら生徒がいなくなるので必死だろう。

テストがないことも大きいかもしれない。
クラスの子どもたちと競争していないので、
分からないことはお互いに教えあうらしい。
年少の子が年長の子に教えることもあるそうだ。

兎に角いやいややっている子は一人もいないので、どの子も真面目で熱心だ。



誰だって好きなことは覚えるけど、いやなことは頭に入らない。
原子周期表を来週までに覚えて来いと言われて覚えられる人が何人いるだろう。

全員が机の前に座って、歩き回れば叱られて、
覚えられないと馬鹿にされて、毎日学校へ行くのだ。

こんなつらいことは今の私は絶対やりたくない。

そんな辛いことを子どもだからと言うだけで毎日授業と言う檻の中で
強いられていることが、果たして子どもにとっていいことなのだろうか。

学校の授業も子どもの自由選択にしたら、みんな勉強が楽しくなるだろう。

2015年1月11日日曜日

好奇心を潰す

学ぶということは好奇心の発露だ。

幼い子供を見ると目に入るものを触ってみたい、舐めてみたい、立ってみたい、歩いてみたい、しゃべりたいと言う欲求に基づいて自ら行動する。決して親は立ってご覧とか、歩いてごらんとは言わない。たとえ話しかけても意味は理解できないと思うからである。

その後走ったり、くるくる回ったり、唄を歌ったり、少しずつ自分のできることを広げていくが、親もさあこれから30分間は走ってみようかなどとは言わない。子どもが走りだしたら子どもが転げないように気を配って一緒に走るだけだ。

これらはもともと子どもが持っている自然な好奇心だ。見てみたい、やってみたい、遊んでみたいと言う好奇心が赴くままに自ら動く。

ところが学校へ行くと途端に決められた時間に決められた場所にいて、教師のいうことを聞いていなくてはいけない。自分の好奇心は無視され、先生の言いなりにならないといけない。それまでの幼児期に許されていたことが学校へ行ったとたん何一つ許されなくなる。

歴史上の発明や発見は好奇心に突き動かされていてやむに已まれずに突き進んだ結果生まれてきた。それはまさに幼児期の子どもと同じ精神構造だ。

子どもが100人いれば100人とも学校に行く前は科学者であり、発明家であり、芸術家だ。

学校へ行くことで90人は学校のシステムに押しつぶされてただの人になる。残りの10人が学校の圧力をはねのけて世界を変える人が出てくる。けれど、本当は90人の中にも一定の割合で芸術家や発明家であったり、革命家がいるはずなのに、つまらない会社生活と年金生活を送って終わる。

産業革命後の大量生産と戦争の時代はおとなしく言いなりになる人が沢山必要だったが、時代は変わった。上の人の言う通りにやっていると仕事ができた時代は終わった。

今は格差社会が始まり、今後さらにひどくなる。言うなら戦国時代に戻ったような時代だ。当時のように刀や槍を持って戦うことはないが、ITを武器に命がけの戦争の時代に入った。

大企業でも情報化により人はいらなくなり、国際化で工場を国外に出すことで日本では人が余るようになった。

そこで役に立つのは人のやらないことに目をつけて、果敢に挑戦する人だ。10のうち9失敗しても一つ成功すれば成果が上がることに経営者は気づいた。言い換えると言われたまま挑戦しない人より、失敗する人が求められている。失敗しない人は成功もしないのだ。

学校では失敗が許されない。すべての試験で成功した人が最も優秀で、そういう人が高級官僚になり、失敗しない仕事をして日本を衰退させている。

そして子どもたちは学校に行き教師の言うままに覚えて実行すること、これを延々と繰り返すことで高い評価を得る。好奇心の赴くままに自由に勉強しようとすれば赤点をもらってダメ出しされる。そうなれば好奇心を封殺するしか生きていけない。

教師が子どもたちに好奇心によって自由に学んでほしいと思ってもできない。それをすることで学校システムを維持しているすべての組織と人の生活が成り立たなくなることを怖れている。
そうやって学校が自分自身を守るために、子どもたちの好奇心を押し潰しているのだ。好奇心をつぶされた子どもは自分のためではなく、誰か知らない人のための人生を生きることになる。

自分のために生きない子は生きることを楽しむことができない。

2015年1月7日水曜日

一貫性の誤謬

学校は子どもにとって大事なことを体系的に一貫性を持って教えている。と言われる。

果たしてそうだろうか。実際は学校の教師は全く脈略もなくバラバラに教えている。

形容詞、設計、楽器、体育、コンピュータ言語、平安時代の歴史、二次方程式、植物の種、これらが脈略もなく限られた時間に次々と子どもたちは黙って聞いて覚えないといけない。一切の異論は許されない。このどこに一貫性があると言うのだろう。

学校の論理は、子どもが何かに夢中になるより、表面的な知識(国語、数学、理科など一通り覚えておくべきこと)をいかに詰め込むかということだけだ。

まともな人間が必要とするのはバラバラの事実ではなく、意味だ。

すべての事象には順序がある。朝起きて昼から夜に流れる時間、農作業には種まきから雑草取り、そして収穫に至る流れ、晩飯の準備、すべてに流れがある。そこでは一つ一つに正当な理由があり、前後との結びつきにより全体が完全に調和している。

覚えるべきは正当な理由だ。それを覚えるのは因果関係だからいともたやすく覚えられるし即効役に立つ。

ところが学校の教育はどの授業も、時間割も、どれも順序が入り乱れていて、どこにも一貫性がない知識の断片だ。子どもたちが学ぶことは魔法の呪文か、お経を丸暗記するようなものである。

子どもたちはこうした混乱した授業時間を自らの運命として受け入れるしかないのである。


教師たちはどの科目においても実務の経験が(ほとんど)ない。子どもはそのことを知らずに金科玉条のように覚えるしかない。社会に出るとこれらの知識は役に立たない。

今の私なら逆ねじを喰わせて先生を立ち往生させることなぞいとも簡単である。なぜなら、仕事上どれもまったぁぁぁぁぁく、役に立たないから。大事なことはもう一度頭から勉強しなおしたし、どうでもいいことはどうでもいいから。

そんなつまらないことに10年以上も付き合わされ、そのつまらない知識の断片を捨てて再構築するためにさらに10年もかかってしまった。結果的に6歳から26年も回り道を余儀なくされた。しかも頭が柔らかくて吸収力の高い貴重な時期をだ。 

――俺の青春を返ぇせぇええぇぇ――

と言いたい。

私で懲りたので、息子は小学校へ行ったことも、授業に出たことも、宿題もテストもない。(鬼太郎みたい) だから能天気に毎日遊びまわっているが、普通の学校に通っている同年の男子が読めない大人の本を読んで、数学や、トランジスタなどの電子回路の勉強をしている。

2014年12月21日日曜日

テストの虐殺


たとえばこの問題、間違えていると言えるだろうか

誰が見ても正解だと思う。
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テストで優れた解答を考え出したとしても
あらかじめ決められた解答以外は不正解になり
成績表に響く。


また読書感想文を書けと言われて提出したが
文章に対する評価はしてくれずに
まだ教えてない漢字を使っているからと×をつけられた子がいる。

すると次から教わった漢字かどうかばかり気にして
文章には何の注意も払うことはなくなったそうだ。

教師よりうまい絵を描く子に【子どもらしくない絵だ】と言って
赤点をつけられた人は絵描きになり損ねて悔しそうだった。

こういう事態が続くと、子どもは自分の知的関心より、
先生の思惑に気を取られてしまう。

何でもどこかに正解があり、その正解を先生の顔色を頼りに
探り当てるのが勉強だと思うようになる。

平安京の成立年を答えさせる問題は定番だが、
学説を調べると諸説あり、まだ確定していない。
にもかかわらず一応決まった数字を入れるしかない。

本来の歴史はある現象が起きた原因やその結果に対する
自分の考え方を論述する方が学問に値する。

しかし、その回答に対し、教師が正しく評価できない。
つまり、採点できない。
だから、そういう問題を出すことはない。

英作文では日本語に堪能なアメリカ人に聞くと
人によって英文が違うし、仮に正しいとしても、
同じ言い方を繰り返すとバカみたいなので、
言い方を変えるのが普通だと言う。


これまで世の中で生きてきたが正解なんかどこにもなかった。

正解だと思ってきたことは基本的に錯覚か誤解であったことがほとんどだ。

唯一問題と解答が対一になっているのは算数だけだった。
数学になると答えは同じでも解法は人によって違っていた。


結局学校でテストを繰り返すことで得られたものは
問題に突き当たった時正解を探してしまう習性が付いたことだった。

だから、世の中にセミナーがいっぱいあり、コンサルがはやるのだ。
今まで、セミナーの講師や、コンサルの先生に聞いてうまくいったためしがない。

結局、自分で悪戦苦闘してとりあえず答えをひねり出すしかない。

そして、その答えは正解かだったかどうか永久に謎のままである。

そこにたどり着くまでエラク遠回りしてしまったのが口惜しい。
さらに、遠回りするためだけに學校へ行った時間を含めて
人生のうち20年ぐらいの無駄の時間を過ごしてしまった。

今息子(10歳)は全く学校へは行っていない。

だから、生まれてから一回もテストを受けたことはなく、
ほとんど毎日友達と遊びほうけている。
最近は毎日ビリヤードか卓球をやっていると言っていた。

がしかし
数学は方程式を学んでいるし
ネイティブ風の英語を話し、
ノートパソコンでプログラミングを始め
「貧困大国アメリカ」を私の本棚から引っ張り出して読んでいる。

みんな自ら好んで選んだ道である。

親はこういうものがあると言うのは見せていて
聞かれれば、教えているが
それはやりたくないと言われたらそのままにしている。

子どもの人生はいずれその子がひとりで生きていくのだ。
親や教師の出る幕はない。

子どもが小さい時は自分で自分なりの解答を探し出すための練習を
遊びの中から学んでいくことが大切だと思う。

本人ができること、できないことは自分でようく分かっている。
テストをして他人から言われる必要はない。

そのうち子どもは自然に勉強したくなってくる。
それを待つのが親の仕事だろうと、今は考えている。

人の創造性は教えられるものではない。

自らひねり出すものだ。

創造性を虐殺するにはテストを100回も繰り返せばいい。

2014年12月9日火曜日

なぜ学校はこんなにつまらないのか

5.学校はなんでこんなにつまらないのか


学校の歴史から考えてみたい。

学校の原点は修道院の中にあった神学校だと言われている。

しかしそれが国民に対する強制教育に変えたのが産業革命である。

学校が誕生する前は子どもを誕生から育児、教育するのは親の仕事であり、
大人になると家業を継ぐのが普通であった。

鋳掛屋の子は鋳掛屋だし、百姓の子は百姓で、貴族の子は貴族だった。

そんな時代が稲作が始まった5000年前の農業革命からから続いていた。

その終わりを告げたのが産業革命である。

産業革命は蒸気機関の発明により、
それまでの人力や馬力の世界を機械がとってかわった

帆船だと3週間程度かかっていたのが1週間で大西洋を横断できるようになり
船は木造から鉄製に代わり、大きな大砲も積めるようになった。

そのためその後戦争の概念が変わった。

また工場ではパワーの大きい機械を一人や二人で扱えないので、
多くの人間を集めて同じ仕事をさせて大量生産が始まった。

機械は操作が複雑で多くの人を細かな作業に分ける分業が始まった。

決まった時間に始め、決まった作業をし、繰り返し効率よく仕事をする。

そのために、四の五の言わずに黙々と働く人が欲しかった。

でもそんな習慣のない大人にさせようとしても、まずいうことを聞かない。

そこで新しい価値観を与える学校と言う教育施設をつくり、
子どもを親から引きはがしそこに押し込んでしまう法律を作った。

これが学校の始まりである。

学校は読み書き計算を教えるだけではなく、
秩序順応の習慣をしつけると言う裏の役割がある。

これを「闇教育」といい、学校本来の目的である。

その証拠に体罰は読み書きに対してではなく、
闇教育に反した者に対し与えられる。


一方大量の材料と製品を効率よく動かすために
資本家が集まって国家を形成した。

国家が成立すると国家間で凄惨な総力戦が始まった。
地域間の奪い合いが国家を形成したと言い換えてもいい。

工場が生まれることで武器や軍艦の性能が向上し
ヨーロッパは戦争に明け暮れるようになり
大量の武器を使う戦争では戦闘員は騎士から兵士へかわった。

つまり、戦闘行為が専門職から大量の素人集団になったのである。

その点でも学校は有効であった。

国家の支配者は「工場における一斉作業」と、
「戦場における命令指揮下の統一行動」のための
基礎知識を学校教育に求めた。

学校はその期待に沿って、定時開始、一斉授業、一律教育を推し進めた。

そのために教室における教師は全権を掌握し、
その命令に対し絶対服従を子どもたちに押し付けた。


さらにヨーロッパは自国だけでなく世界を制覇し始めた。植民地である。

強烈な戦艦と武器はアジア、アフリカ、アメリカ大陸を震撼させた。

それに対抗するためには、
西洋人の教育制度を取り入れるしかないと悟った。

そうしなかった国は絶滅したか、奴隷として徹底的に収奪されたのだ。


ヨーロッパのやり方をまねるしか選択の余地はなかった、

そのためには子どもの時期から新しい価値観を植え付けるしかないと考えた。

だから、世界中の学校の仕組みはどこに行っても全く同じなのだ。


つまり学校は工場労働者と兵士の養成校として始まった。

始まってしまうとそれ自体が自己目的化して、連綿と今に続いている。


今でも途上国においては学校は有効に機能している。

学校は経済や社会が近代化する一過程として必要だったかもしれない。

しかし21世紀になり先進国では情報革命がおき、
戦争は減少し、工場生産も自動化が進んできた。

近代国家では軍も工場も変革を迫られた。変わらないと生き残れないからだ。

学校も変わらないといけないが、
今でも100年前と同じ方法や教材で授業が行われている。

それは教師や文科省が学校に適応した人で構成されているからで
自身と同じ適応できる人を育てているつもりだ。

学校は今でも変わりなく労働者と兵士を作っている。

しかし、社会はもう労働者も兵士も必要としていない。

言われたとおりに動くしかできない人間は低所得にあえぐことになる。

逆に、学校はそのものが自己目的化し、
高等教育への受験体制が整備されるようになった。


現代に必要なのは時代を切り開く情熱と閃きだ
でもそれを教えることができる先生はいない。

必要ともされていない闇教育を押し付け続けているのだ
子どもが全く求めていないものを押し付けている


だから、学校はつまらないのだ。


もっと問題は、闇教育を受けると、それに従うことが当然と思い込み、
なんら、自ら発想したり、社会を改革しなくなる者たちが生まれることである。

そういう人間ばかりになると社会は硬直化し、最後は経済が破壊される。

日本はそういう状況に陥りつつあり、
結果的に世界の潮流に乗れずに苦しんでいるのだ。

2014年12月3日水曜日

学校不要論 勉強嫌い

あるホームページで大学の関係者らしき人がこのように言っていました。
英語を勉強して、外国語の新聞や記事、本を読んで勉強しようとしたら、すぐに気づくことですが、その国の小学校、中学校で習うような科学用語や歴史用語、社会制度用語が分からないと、社会人が読むようなものは全く手も足も出ないんです。これらは別にその国で普通にテレビを観たりと普通に生活することでもある程度は身に付くと思うかもしれませんが、一回学校で教えて貰ってるのとそうでないのとでは大違いです。
これにはいくつもの矛盾点があり、小学校中学校で科学用語や歴史用語、社会制度用語を英語で教わるのでしょうか。それとも日本語でそのような言葉を習っておかないと英語でもわからないということでしょうか。

さらに、一回学校で教えてもらっているのとそうでないのでは大違いと言っていますが、どう違うのでしょう。

この時代の変化の激しい時に、学校を卒業してから初めて見ることは嫌っと言うほどあります。それが身につかないなら新しいことはすべてマスターができないということになってしまいます。

学校で勉強しまいが、そうでなかろうが、結局は同じです。

たとえ学校で教わっていても、必要な時にはもう一度勉強しなおさないと使えません。

学校は所詮時間の無駄遣いでしかないと思うのです。

でも学校は利害が絡んでいるのでなくすことができません。

問題はそのしわ寄せが子どもたちに来て、やらなくてもいい苦労をさせているのです。

今の子どもたちは夜遅くまで宿題に追われ、塾に通い、テストのために心を悩ませています。

それが子どもを深く傷をつけているということになぜ気づかないのでしょう。

子どもはもともと遊ぶために生まれてきているのだと思うのです。

途上国のテレビもない国の子どもたちは明るくてキラキラした瞳をしています。
子どもたちはお金も勉強もいらないのです、友達と山や川を走り回ることが一番楽しいのです。

日本の子どもたちが塾の帰りにリュックをしょって夜遅くコンビニの周りでゲームをしている姿を見ると本当に悲しくなります。

学歴が欲しいだけで学校に行くのではなく、勉強をしたくて行くのが学校です。

その勉強をしたくなるためには思う存分友達と土や木や花や水と遊ぶことが必要なのです。

人間にとって自然がすべての原点です。

そこから始めることで自分が何をしたいかが見えてくるのだと思います。

そうして初めて、勉強したくてたまらなくなるのでしょう。

赤ちゃんの時は聞くこと、歩くこと、話すこと、絵を見て、描くことが楽しかった

それを寄ってたかってつまらないものにしているのが学校なんです。


まだ羽根も生えていないのに、飛ぶ練習をさせるのはやめてほしいのです。

飛ぶことが嫌いになってしまいます。

自分が飛べるようになってから、飛んで見たいという気持ちになって、

それから青空の中よたよたと羽ばたいていってほしいのです。

それまでは親の庇護の下、存分にひなを楽しんでほしいなと思います。


つぎは なんで学校がこうもつまらないのかを考えてみます

2014年11月30日日曜日

学校不要論 勉強より遊びだ

学校へ行くと机の前に座って勉強をする。
体育の時間やら部活で体を動かす
サッカーや野球でチームプレイを学ぶ。
一見、脳と体を鍛えるのは正しいように見える。
でもこれらは間違えているとは言わないが
大事なことを見落としている。

少年時代に一番大事なことは子どもだけで遊ぶことなのだ

3.勉強より遊びだ

今の子どもたちはゲーム機を使って遊ぶがこれはあまりよくない。

体を使って子どもだけで遊ぶ、これは少年時代にしかできない。

サッカーや野球、バレーボールやラグビー、いろいろあるが、

いずれもスポーツでありルールが決まっている。

スポーツ教室でサッカーをやればルールを教えられる。


子どもが遊ぶということの大事な点は、

子どもだけで遊ぶことだ

そこに大人が関与してはいけない。

あれはだめ、こうしろと言われて遊んでいては学べない

子どもの遊びは自由でなければならない。

しかし、二人以上での遊びにはルールは必要である。

このルールを遊び仲間で決めること、これが大事なのだ。


息子はよく氷鬼をやっていた。

毎日毎日ひたすら友達と氷鬼だ。

息子に聞いた、なんで氷鬼ばかり毎日やって飽きないのだ

息子はこう答えた。

いろいろ遊んだが氷鬼が一番面白い、

毎日、同じことをしているように見えるだろうが、

昨日通用したことが、今日は使えない

相手の動きを予測してどう追いかけるか

どこで待ち伏せるかを考える。

考えると相手はそのまた裏をかいてくる

しかも相手は一人ではない、何人もの相手が予想外の行動をする

そのすべてを予測しないと勝てない。

だから毎回、毎回、展開が変わる、これがおもしろい

さらに、飽きてくるとみんなで集まってルールを変える

これは多数決なので、自分の意見が通るとは限らないが、

みんなと一緒に遊びたいので、

たとえルールが思い通りでなくてもそのルールに従って遊ぶのさ


こう聞いたとき、唖然とした。

これは大人になった時の仕事のやり方と全く同じだ。

学校で民主主義や、ビジネスのことを学ぶ何倍もの知識を

遊びから体験により身に着けているのだ

4歳ぐらいから12歳ぐらいまでの男女が一緒になって遊んでいる。

当然体力も俊敏さもかなり違うがそれもわかっていて

小さい子にはルールを微妙に調整している。

因みに周囲の大人は彼らの遊びに一切関与していない。

にもかかわらず、自然にやっていてそのことを大人に自慢したりしない、

あたりまえのこととしてやっている。

私がそれは凄いことだと言うと、「なんで?」と言う顔をした


学校で一斉授業を一方的に受け、さらに宿題で家の時間も縛られ

スポーツ教室やピアノ教室でも言われたとおりにやることを要求され、

夏休みも冬休みも山のような宿題に追われ

塾に通いそこでも一方的の教わる

さらには受験勉強でひたすら暗記を迫られ

こんな自己判断を認められないまま大学に入り自由にしろと言われても

指図なしで考えることをしたことがなくて、なにができるというのだろう

社会に出てからも指示待ち人間と謗られ、

ニートになり、引きこもりになり、
やけっぱちになると犯罪や薬に頼るようになる。

ブラック企業は学校で自己判断ができなくされた若者を利用している

学校は考えない人間を大量生産している。


子どもは10歳までは勉強させてはいけないと思っている。


10歳過ぎまで文字も知らなかったホームスクーラーが
突然勉強すると言いだして

16歳には大学に入学するまでになった人もいる。(日本ではない)

そうなると本人、勉強したくて大学に来ているから

学校を卒業してきた子より優秀だったそうだ


時代は海図のない時代に入った。

指示通り行けば人生を全うできるという時代は20年前に終わった。

この先世界中の格差は拡大し、日本は徐々に貧しくなる。

言うなら、平安時代から戦国時代に突入したようなものだ

今までの価値観は通用しない。

そういう時、生き残る為には


  • 常識を疑う
  • 協働関係を結ぶ


この二つを上手にできること。

自由な遊びにはこの二つが満ちている。

2014年11月27日木曜日

学校不要論 個性の抑圧

最初に能力と言うものを私なりに考えてみた。

能力とはその人がもともと与えられたものであり、
努力しても持っている能力を増やすことはありえないということ。

こういえば身もふたもない話だが、事実だ。

ここでの能力とは可能性と言い換えてもほぼ同じ

ただ環境(育児や教育)を通じて能力を潰すことは可能だ。

子どもに否定的言葉を投げると、そのたびにその子の可能性を消すことになる。

人によって違うが、仮に1億の可能性があるとすれば、
「こんなこともわからんのか」と言えば言うたびに一つ可能性が消える。

言葉だけでなく身振りであっても子どもを馬鹿にすれば敏感に感じ取る。

1億あるからそう簡単になくなることはないが、
子どもを否定すればその分確実に可能性が抑圧される

ただし、ほめて可能性が減ることもないが、増えることもない。

ほめて、伸びたように見えるのはもともと持っていた能力が
何らかの理由で抑圧されていたのが、解放されることによる効果だと考える。

卓越した行為をみて、本心から驚いた時に発する言葉には効果があるが

ほめることを意図的に行うと逆効果になりやすい

親や教師は子どもの能力を低下させる影響力しか持ち合わせていない

これを前提に

3.個性の抑圧

30人もいる生徒に各自自由にやらせることは無理だとみんな信じている、

だから、学校に行くということは教師のいう通りに覚えることが基本である。

自分のしたいことを勝手にやると叱られる。

知りたいこと、やりたいことは誰も持っている。

にもかかわらず、やってはいけないと言われる。

授業中に自分の知っていることを教わっているとする。

つまらないから、聞いていないで、自分のやりたいことをすると叱られる。

つまらないことを、つまらないと言えば叱られる。

逆に授業の内容が分からないからと、しつこく質問することも許されない。

授業の後で先生に聞けばいいと言うかもしれないが、
半数の生徒が先生の所に聞きに来たら先生は対応できない。
分からない子はスルーして、落ちこぼれにしておかないと学校は成り立たないのだ。

つまり賢くなろうという意欲を押しつぶさないと授業が成り立たない。

その結果どうなるかといえば、

積極的に考えなくなる。

先生と違う行動や意見は抑圧される

特異な行動を取る他の子どもに対しても抑圧的になる

そこからいじめが始まる(こともある)

知的レベルの高い子ほどこの罠にはまりやすい

どんな子どもでもストレスの少ない方向に移動しようとする
子どもに限らず(単細胞生物でも)同じだ。

知的な子は教師の思惑が良く見える。

だからそれに上手に応えてストレスを減らそうとする

そうなると知的な能力を「他者の思惑に従う」方向に使うようになる

悲しいことに学校教育により優秀な子どもの可能性の抑圧が起きている

本当に特異な、独創的でかつ意思の強固な子だけが
教師の世界観を無視できるのだ

逆に知的水準が高くない子どもは先生の思惑もよくわからないし、
教科の内容も理解できないことがある。

そうなると、落ちこぼれるか、懸命になって無駄な勉強をするか、
人の足を引っ張るか、人生をあきらめてしまうことすらある。

いずれにしろ、
ほとんどの子どもは大事な成長期に学校により可能性を抑圧され、

能力のほとんどを押しつぶされて規格化された人間として押し出される


知的水準の高い子どもにとって教師は障害でしかなく、

知的水準の低い子どもにとって学校は牢獄でしかない。

(知的水準≒記憶力)

プロクルーステースのベッド」が学校の実情である

2014年11月26日水曜日

学校不要論 バカを作る学校

学校へ行けばいくほど人間はバカになることの理論的証明。

2.バカを作る学校


学校は成績で子どもに序列をつけると前回書いた。

一般に学校では成績が良い子は褒められるが、
成績があがらない子はうっすら馬鹿にされる。
ひどいと落ちこぼれ扱いだ


成績は学力と必ずしも一致しているわけではない

本来は多様な才能があるにもかかわらず、
学校は成績と言う数値だけが評価の対象だ。

成績は相対的評価であり、子どもたちとの間の位置を表しているに過ぎない。

でも成績評価が悪いとまわりから頭が悪いと決めつけられる。

それは明示的であると暗示的であるかは問わない。

だから、成績が悪いとそれだけで自分はだめだと感じてしまう。

学校からドロップアウトして不登校に逃げてしまう子もいる。

なんとかして成績をあげたいと考える子もいる。

努力して勉強すればいいかもしれないが、
懸命に努力しても他人がもっと成績を上げれば、自分の成績は逆に下がる。

つまり他の子より成績が良ければいい

逆にクラスメートの成績が下がれば自分の成績を上げることができる。

そして、成績をあげるために努力を重ねるより、
人の足を引っ張って努力させないほうが効率的だと気づく

<勉強したのに、してないと嘘をついたことはないだろうか?>

ましてや、成績の悪い奴の勉強を見てあげるなどとは考えも及ばない。

みんなが同じように考え、お互いが足の引っ張り合いをする。

その結果、学校は総体的に学力が低下する

みんなで下げているから、気づきにくいだけである

学校へ行けばみんなバカになるということだ。


その証明がアメリカの研究による、ホームスクーラーのほうが
公立校の生徒より平均30%は成績が高いという報告だ。

当たり前である。

ホームスクーラー同士はお互いに成績で競争してるわけでないから
分かる子どもが分からない子どもに教えている。
教えることでさらに詳しく考えられるようにもなる。

そのほうが仲間意識も高く、協調性も強くなる。

社会では成績より、協調性のほうが大事だ。

ほとんどの学校卒業生は社会に出たとき
競争から協力への意識の切り替えに苦労している。

本当に無駄な苦労としか言えない。