2015年2月3日火曜日

創造力の抑圧

学校は世の中の創造的活動から取り残されている。音楽家が音楽の授業から、科学者が物理の授業から、画家が美術の授業から生まれるとか、育つと信じている人はいない。

実際学校は命令に従うことしか教えていない。やさしくて思いやりのある人々が子どもたちのために懸命になって接していても、学校と言う組織は学校の抽象的な論理によって押しつぶそうとする。
学校がチャイムを鳴らすとどれほど生徒が文学に夢中になっていても教科書やノートを閉じて英語の授業を受けないといけない。それはあたかも精神分裂病のようで、創造的活動とはかけ離れている。人は時間を忘れるほど集中しないと創造的活動は身にならない。

マサチューセッツ州のエドワードケネディ上院議員によれば、義務教育が導入される前の1850年に州の識字率は98%だったが、導入後は1990年の91%が最高だという。また、ホームスクーラーの思考力は、学校に通っている同級生より5年から10年進んでいるそうだ。考え始めると集中力を断ち切られることも、他人から評価されることもないためだろう。

学校制度は教育とは同義語ではない。学校と言う組織はホーレス・マンとシカゴ大学ハーパー、コロンビア教育大学のソーンダイクと言った人々が構想した大衆を厳しく管理することが目的であった。つまり、学校は公式通り行動する人間、コントロール可能な人間を生み出すために作られたのである。

その結果、社会は階層化が進み「支配階級」だけに自立と個性が許され、それ以外の大衆は自分の頭で考えることは望まれていない。従うことになれた人はひたすら言われたとおりに手を動かして得たわずかな稼ぎをテレビやばくちに費やすだけで、自分の頭で考えることをしない。

要するに、他人に対しても、自分に対しても、役に立たずに生涯を過ごすのだ。

こうした悲劇の原因は、ポール・グッドマンが言ったように、ばかげた学校制度にある。同じ年齢、同じ地域の人をまとめて監禁するような制度に従うことは、人生を台無しにすることに他ならない。それは人間のあらゆる可能性を奪い、人々を過去や未来から切り離して、ただ連続する現在にとどめようとするものだ。

情報化がこれ以上進めば極少数の支配階級と少数の未来への開拓者(科学者、芸術家、実業家)以外は、現在に生きることに精いっぱいになるだろう。未来を生み出すのは空想力であり、集中力だ。学校はそのいずれも押しつぶすことに夢中になっている。

チャイムの音で集中力を断ち切って教室を移動させ、プライベートな時間にまで踏み込んで「宿題」をやらせようとし、テストの成績という単純な記憶力でふるい分けをする学校。そんなところで伸び盛りの子ども時代を過ごさせるのは実に愚かなことである。


2015年1月31日土曜日

自尊心の破壊

いつも叱られている子はいつも誰かに叱られないかおびえている。そういう子どもはコントロールがしやすいので、他人の言いなりになることが多い。でも親から無条件に愛されている子どもは自尊心が強く人のいうことに無条件に従わない。

しかしそういった自信家ばかりいると先生は教室を維持できなくなる。そこで教師は子どもの自尊心をつぶすために評価を使う。そうして子どもに自分の価値は自分ではなく、専門家による評価に左右されるということを教え込む。

それでも教師に従わない時は学校は子どもの両親に成績表で点数や生活態度を報告する。評価が低い子の親は進路に響くことを怖れて子どもに教師の価値観に従うように教えたり、叱ったりする。その結果、子どもは親を信じるよりも教師の権威に従うべきだと思い込むようになる。

これは企業が消費者に不満を抱かせ、そこから需要を掘り起こすのと似ている。こういった教師の客観的(に見える)評価の積み重ねにより、子どもの自尊心は大きく左右され、自分の未来は他社の評価にかかっていると考えるようになる。

自己評価はビジネスや哲学の世界では重要な要素であっても、学校教育では全く問題にされていない。

自分にどれだけの価値があるのか、それは他人が決めることであり、自分の評価を自分がしてはいけないのだ。

2015年1月24日土曜日

授業の自由選択

10歳になる息子は教室や学校が嫌いだ。
小学校に上がるとき学校へは絶対行かないと言い張っていた。
学校の体験教室を後ろから見て「つまらなそう」と言った。
どうしてと聞くと「みんな座って聞いているだけ」と答えた。

私が学校嫌いだという点もあり、親の影響を受けているのだと思っていた。
ところが学校なんか行くとバカになると言っていた友人夫婦がいるが、
その3人の子どもはみんな親の反対を押し切って学校へ通っている。

親の影響はないとは言えないが、それほど大きいわけでもないと思った。

息子はしばらく地元のサドベリースクールに通っていたが問題があり辞めた。

一昨年、家族でイギリスのサマーヒルスクールまで下見に行き、
息子の決断により去年の4月からそのスクールに行くことにした。
今寄宿舎で過ごして年に3回日本に帰って来る。

そこは90年ほど前にドイツで創立したがすぐイギリスに移転した。
今は70人ほどの4歳から16歳ぐらいの男女メンバーが共同生活している。
そこでは大人であるスタッフがメンバーの面倒見ているが、命令することはない。
スタッフとメンバーが集まるミーティングで決めたルールに全員が従っている。

授業は毎日行われていて、どれを受けるかはメンバーが選ぶ。
だから、クラスにはいろいろな年齢の子がいて、
それぞれ違う内容を教わることもあるらしい。

全く授業を受けなくても構わないから毎日遊び歩いているだけの子もいる。
ただ、ミーティングの決定により、昼間はテレビゲームの類は禁止されている。

息子は今卓球とビリヤードに夢中だそうだ。

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息子に勉強しなさいと言ったことは一度もない。
勉強に限らず、何でも強要したことはないが、やってみるかと聞くことはある。
ロボット教室行ってみるかと聞いたとき行ってもいいと言い通い始めたが、
3か月たって「もういい」と言って行かなくなった。
理由を聞くと「つまらん」だった。
要は、クラスが年齢分けされていて、面白そうなことができないということだ。

サドベリースクールでは勉強をしないので、私が教えていた。
本人がやりたいと言うまで待って、週に1~3回ぐらい30分ぐらい。
他の時間は友達と遊ぶか、パソコンでゲームをやっている。
それでも同じ歳で学校へ行っている子よりかなり先のほうまで教えていた。

息子は決して天才でもなく、頭がいいわけでもない。
本人がやりたいとき、やりたいことを教えていれば実によく覚えるということだ。

一般に10歳ぐらいまでは体を動かすことで学ぶ。
大人と違い、じっと座って聞いたことはなかなか覚えられないのだ。
友達と走り回りケンカした後に聞く知識は海綿のように吸収できる。
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年が明けて息子はまたスクールに戻っていった。
昨日息子からスカイプが来て話を聞いて驚いた。
授業を5つ受けていると言うのだ。
英語が3つ、数学が2つだ。しかもそれを英語で受けている。
面白いのと聞くと「楽しい」と返ってきた。
あんなに教室が嫌いだった息子が「授業が楽しい」と言うのだ。

自由意思で学ぶことは楽しい。
教える側も、子どもに嫌われたら生徒がいなくなるので必死だろう。

テストがないことも大きいかもしれない。
クラスの子どもたちと競争していないので、
分からないことはお互いに教えあうらしい。
年少の子が年長の子に教えることもあるそうだ。

兎に角いやいややっている子は一人もいないので、どの子も真面目で熱心だ。



誰だって好きなことは覚えるけど、いやなことは頭に入らない。
原子周期表を来週までに覚えて来いと言われて覚えられる人が何人いるだろう。

全員が机の前に座って、歩き回れば叱られて、
覚えられないと馬鹿にされて、毎日学校へ行くのだ。

こんなつらいことは今の私は絶対やりたくない。

そんな辛いことを子どもだからと言うだけで毎日授業と言う檻の中で
強いられていることが、果たして子どもにとっていいことなのだろうか。

学校の授業も子どもの自由選択にしたら、みんな勉強が楽しくなるだろう。

2015年1月11日日曜日

好奇心を潰す

学ぶということは好奇心の発露だ。

幼い子供を見ると目に入るものを触ってみたい、舐めてみたい、立ってみたい、歩いてみたい、しゃべりたいと言う欲求に基づいて自ら行動する。決して親は立ってご覧とか、歩いてごらんとは言わない。たとえ話しかけても意味は理解できないと思うからである。

その後走ったり、くるくる回ったり、唄を歌ったり、少しずつ自分のできることを広げていくが、親もさあこれから30分間は走ってみようかなどとは言わない。子どもが走りだしたら子どもが転げないように気を配って一緒に走るだけだ。

これらはもともと子どもが持っている自然な好奇心だ。見てみたい、やってみたい、遊んでみたいと言う好奇心が赴くままに自ら動く。

ところが学校へ行くと途端に決められた時間に決められた場所にいて、教師のいうことを聞いていなくてはいけない。自分の好奇心は無視され、先生の言いなりにならないといけない。それまでの幼児期に許されていたことが学校へ行ったとたん何一つ許されなくなる。

歴史上の発明や発見は好奇心に突き動かされていてやむに已まれずに突き進んだ結果生まれてきた。それはまさに幼児期の子どもと同じ精神構造だ。

子どもが100人いれば100人とも学校に行く前は科学者であり、発明家であり、芸術家だ。

学校へ行くことで90人は学校のシステムに押しつぶされてただの人になる。残りの10人が学校の圧力をはねのけて世界を変える人が出てくる。けれど、本当は90人の中にも一定の割合で芸術家や発明家であったり、革命家がいるはずなのに、つまらない会社生活と年金生活を送って終わる。

産業革命後の大量生産と戦争の時代はおとなしく言いなりになる人が沢山必要だったが、時代は変わった。上の人の言う通りにやっていると仕事ができた時代は終わった。

今は格差社会が始まり、今後さらにひどくなる。言うなら戦国時代に戻ったような時代だ。当時のように刀や槍を持って戦うことはないが、ITを武器に命がけの戦争の時代に入った。

大企業でも情報化により人はいらなくなり、国際化で工場を国外に出すことで日本では人が余るようになった。

そこで役に立つのは人のやらないことに目をつけて、果敢に挑戦する人だ。10のうち9失敗しても一つ成功すれば成果が上がることに経営者は気づいた。言い換えると言われたまま挑戦しない人より、失敗する人が求められている。失敗しない人は成功もしないのだ。

学校では失敗が許されない。すべての試験で成功した人が最も優秀で、そういう人が高級官僚になり、失敗しない仕事をして日本を衰退させている。

そして子どもたちは学校に行き教師の言うままに覚えて実行すること、これを延々と繰り返すことで高い評価を得る。好奇心の赴くままに自由に勉強しようとすれば赤点をもらってダメ出しされる。そうなれば好奇心を封殺するしか生きていけない。

教師が子どもたちに好奇心によって自由に学んでほしいと思ってもできない。それをすることで学校システムを維持しているすべての組織と人の生活が成り立たなくなることを怖れている。
そうやって学校が自分自身を守るために、子どもたちの好奇心を押し潰しているのだ。好奇心をつぶされた子どもは自分のためではなく、誰か知らない人のための人生を生きることになる。

自分のために生きない子は生きることを楽しむことができない。

2015年1月7日水曜日

一貫性の誤謬

学校は子どもにとって大事なことを体系的に一貫性を持って教えている。と言われる。

果たしてそうだろうか。実際は学校の教師は全く脈略もなくバラバラに教えている。

形容詞、設計、楽器、体育、コンピュータ言語、平安時代の歴史、二次方程式、植物の種、これらが脈略もなく限られた時間に次々と子どもたちは黙って聞いて覚えないといけない。一切の異論は許されない。このどこに一貫性があると言うのだろう。

学校の論理は、子どもが何かに夢中になるより、表面的な知識(国語、数学、理科など一通り覚えておくべきこと)をいかに詰め込むかということだけだ。

まともな人間が必要とするのはバラバラの事実ではなく、意味だ。

すべての事象には順序がある。朝起きて昼から夜に流れる時間、農作業には種まきから雑草取り、そして収穫に至る流れ、晩飯の準備、すべてに流れがある。そこでは一つ一つに正当な理由があり、前後との結びつきにより全体が完全に調和している。

覚えるべきは正当な理由だ。それを覚えるのは因果関係だからいともたやすく覚えられるし即効役に立つ。

ところが学校の教育はどの授業も、時間割も、どれも順序が入り乱れていて、どこにも一貫性がない知識の断片だ。子どもたちが学ぶことは魔法の呪文か、お経を丸暗記するようなものである。

子どもたちはこうした混乱した授業時間を自らの運命として受け入れるしかないのである。


教師たちはどの科目においても実務の経験が(ほとんど)ない。子どもはそのことを知らずに金科玉条のように覚えるしかない。社会に出るとこれらの知識は役に立たない。

今の私なら逆ねじを喰わせて先生を立ち往生させることなぞいとも簡単である。なぜなら、仕事上どれもまったぁぁぁぁぁく、役に立たないから。大事なことはもう一度頭から勉強しなおしたし、どうでもいいことはどうでもいいから。

そんなつまらないことに10年以上も付き合わされ、そのつまらない知識の断片を捨てて再構築するためにさらに10年もかかってしまった。結果的に6歳から26年も回り道を余儀なくされた。しかも頭が柔らかくて吸収力の高い貴重な時期をだ。 

――俺の青春を返ぇせぇええぇぇ――

と言いたい。

私で懲りたので、息子は小学校へ行ったことも、授業に出たことも、宿題もテストもない。(鬼太郎みたい) だから能天気に毎日遊びまわっているが、普通の学校に通っている同年の男子が読めない大人の本を読んで、数学や、トランジスタなどの電子回路の勉強をしている。