2014年11月30日日曜日

学校不要論 勉強より遊びだ

学校へ行くと机の前に座って勉強をする。
体育の時間やら部活で体を動かす
サッカーや野球でチームプレイを学ぶ。
一見、脳と体を鍛えるのは正しいように見える。
でもこれらは間違えているとは言わないが
大事なことを見落としている。

少年時代に一番大事なことは子どもだけで遊ぶことなのだ

3.勉強より遊びだ

今の子どもたちはゲーム機を使って遊ぶがこれはあまりよくない。

体を使って子どもだけで遊ぶ、これは少年時代にしかできない。

サッカーや野球、バレーボールやラグビー、いろいろあるが、

いずれもスポーツでありルールが決まっている。

スポーツ教室でサッカーをやればルールを教えられる。


子どもが遊ぶということの大事な点は、

子どもだけで遊ぶことだ

そこに大人が関与してはいけない。

あれはだめ、こうしろと言われて遊んでいては学べない

子どもの遊びは自由でなければならない。

しかし、二人以上での遊びにはルールは必要である。

このルールを遊び仲間で決めること、これが大事なのだ。


息子はよく氷鬼をやっていた。

毎日毎日ひたすら友達と氷鬼だ。

息子に聞いた、なんで氷鬼ばかり毎日やって飽きないのだ

息子はこう答えた。

いろいろ遊んだが氷鬼が一番面白い、

毎日、同じことをしているように見えるだろうが、

昨日通用したことが、今日は使えない

相手の動きを予測してどう追いかけるか

どこで待ち伏せるかを考える。

考えると相手はそのまた裏をかいてくる

しかも相手は一人ではない、何人もの相手が予想外の行動をする

そのすべてを予測しないと勝てない。

だから毎回、毎回、展開が変わる、これがおもしろい

さらに、飽きてくるとみんなで集まってルールを変える

これは多数決なので、自分の意見が通るとは限らないが、

みんなと一緒に遊びたいので、

たとえルールが思い通りでなくてもそのルールに従って遊ぶのさ


こう聞いたとき、唖然とした。

これは大人になった時の仕事のやり方と全く同じだ。

学校で民主主義や、ビジネスのことを学ぶ何倍もの知識を

遊びから体験により身に着けているのだ

4歳ぐらいから12歳ぐらいまでの男女が一緒になって遊んでいる。

当然体力も俊敏さもかなり違うがそれもわかっていて

小さい子にはルールを微妙に調整している。

因みに周囲の大人は彼らの遊びに一切関与していない。

にもかかわらず、自然にやっていてそのことを大人に自慢したりしない、

あたりまえのこととしてやっている。

私がそれは凄いことだと言うと、「なんで?」と言う顔をした


学校で一斉授業を一方的に受け、さらに宿題で家の時間も縛られ

スポーツ教室やピアノ教室でも言われたとおりにやることを要求され、

夏休みも冬休みも山のような宿題に追われ

塾に通いそこでも一方的の教わる

さらには受験勉強でひたすら暗記を迫られ

こんな自己判断を認められないまま大学に入り自由にしろと言われても

指図なしで考えることをしたことがなくて、なにができるというのだろう

社会に出てからも指示待ち人間と謗られ、

ニートになり、引きこもりになり、
やけっぱちになると犯罪や薬に頼るようになる。

ブラック企業は学校で自己判断ができなくされた若者を利用している

学校は考えない人間を大量生産している。


子どもは10歳までは勉強させてはいけないと思っている。


10歳過ぎまで文字も知らなかったホームスクーラーが
突然勉強すると言いだして

16歳には大学に入学するまでになった人もいる。(日本ではない)

そうなると本人、勉強したくて大学に来ているから

学校を卒業してきた子より優秀だったそうだ


時代は海図のない時代に入った。

指示通り行けば人生を全うできるという時代は20年前に終わった。

この先世界中の格差は拡大し、日本は徐々に貧しくなる。

言うなら、平安時代から戦国時代に突入したようなものだ

今までの価値観は通用しない。

そういう時、生き残る為には


  • 常識を疑う
  • 協働関係を結ぶ


この二つを上手にできること。

自由な遊びにはこの二つが満ちている。

2014年11月27日木曜日

学校不要論 個性の抑圧

最初に能力と言うものを私なりに考えてみた。

能力とはその人がもともと与えられたものであり、
努力しても持っている能力を増やすことはありえないということ。

こういえば身もふたもない話だが、事実だ。

ここでの能力とは可能性と言い換えてもほぼ同じ

ただ環境(育児や教育)を通じて能力を潰すことは可能だ。

子どもに否定的言葉を投げると、そのたびにその子の可能性を消すことになる。

人によって違うが、仮に1億の可能性があるとすれば、
「こんなこともわからんのか」と言えば言うたびに一つ可能性が消える。

言葉だけでなく身振りであっても子どもを馬鹿にすれば敏感に感じ取る。

1億あるからそう簡単になくなることはないが、
子どもを否定すればその分確実に可能性が抑圧される

ただし、ほめて可能性が減ることもないが、増えることもない。

ほめて、伸びたように見えるのはもともと持っていた能力が
何らかの理由で抑圧されていたのが、解放されることによる効果だと考える。

卓越した行為をみて、本心から驚いた時に発する言葉には効果があるが

ほめることを意図的に行うと逆効果になりやすい

親や教師は子どもの能力を低下させる影響力しか持ち合わせていない

これを前提に

3.個性の抑圧

30人もいる生徒に各自自由にやらせることは無理だとみんな信じている、

だから、学校に行くということは教師のいう通りに覚えることが基本である。

自分のしたいことを勝手にやると叱られる。

知りたいこと、やりたいことは誰も持っている。

にもかかわらず、やってはいけないと言われる。

授業中に自分の知っていることを教わっているとする。

つまらないから、聞いていないで、自分のやりたいことをすると叱られる。

つまらないことを、つまらないと言えば叱られる。

逆に授業の内容が分からないからと、しつこく質問することも許されない。

授業の後で先生に聞けばいいと言うかもしれないが、
半数の生徒が先生の所に聞きに来たら先生は対応できない。
分からない子はスルーして、落ちこぼれにしておかないと学校は成り立たないのだ。

つまり賢くなろうという意欲を押しつぶさないと授業が成り立たない。

その結果どうなるかといえば、

積極的に考えなくなる。

先生と違う行動や意見は抑圧される

特異な行動を取る他の子どもに対しても抑圧的になる

そこからいじめが始まる(こともある)

知的レベルの高い子ほどこの罠にはまりやすい

どんな子どもでもストレスの少ない方向に移動しようとする
子どもに限らず(単細胞生物でも)同じだ。

知的な子は教師の思惑が良く見える。

だからそれに上手に応えてストレスを減らそうとする

そうなると知的な能力を「他者の思惑に従う」方向に使うようになる

悲しいことに学校教育により優秀な子どもの可能性の抑圧が起きている

本当に特異な、独創的でかつ意思の強固な子だけが
教師の世界観を無視できるのだ

逆に知的水準が高くない子どもは先生の思惑もよくわからないし、
教科の内容も理解できないことがある。

そうなると、落ちこぼれるか、懸命になって無駄な勉強をするか、
人の足を引っ張るか、人生をあきらめてしまうことすらある。

いずれにしろ、
ほとんどの子どもは大事な成長期に学校により可能性を抑圧され、

能力のほとんどを押しつぶされて規格化された人間として押し出される


知的水準の高い子どもにとって教師は障害でしかなく、

知的水準の低い子どもにとって学校は牢獄でしかない。

(知的水準≒記憶力)

プロクルーステースのベッド」が学校の実情である

2014年11月26日水曜日

学校不要論 バカを作る学校

学校へ行けばいくほど人間はバカになることの理論的証明。

2.バカを作る学校


学校は成績で子どもに序列をつけると前回書いた。

一般に学校では成績が良い子は褒められるが、
成績があがらない子はうっすら馬鹿にされる。
ひどいと落ちこぼれ扱いだ


成績は学力と必ずしも一致しているわけではない

本来は多様な才能があるにもかかわらず、
学校は成績と言う数値だけが評価の対象だ。

成績は相対的評価であり、子どもたちとの間の位置を表しているに過ぎない。

でも成績評価が悪いとまわりから頭が悪いと決めつけられる。

それは明示的であると暗示的であるかは問わない。

だから、成績が悪いとそれだけで自分はだめだと感じてしまう。

学校からドロップアウトして不登校に逃げてしまう子もいる。

なんとかして成績をあげたいと考える子もいる。

努力して勉強すればいいかもしれないが、
懸命に努力しても他人がもっと成績を上げれば、自分の成績は逆に下がる。

つまり他の子より成績が良ければいい

逆にクラスメートの成績が下がれば自分の成績を上げることができる。

そして、成績をあげるために努力を重ねるより、
人の足を引っ張って努力させないほうが効率的だと気づく

<勉強したのに、してないと嘘をついたことはないだろうか?>

ましてや、成績の悪い奴の勉強を見てあげるなどとは考えも及ばない。

みんなが同じように考え、お互いが足の引っ張り合いをする。

その結果、学校は総体的に学力が低下する

みんなで下げているから、気づきにくいだけである

学校へ行けばみんなバカになるということだ。


その証明がアメリカの研究による、ホームスクーラーのほうが
公立校の生徒より平均30%は成績が高いという報告だ。

当たり前である。

ホームスクーラー同士はお互いに成績で競争してるわけでないから
分かる子どもが分からない子どもに教えている。
教えることでさらに詳しく考えられるようにもなる。

そのほうが仲間意識も高く、協調性も強くなる。

社会では成績より、協調性のほうが大事だ。

ほとんどの学校卒業生は社会に出たとき
競争から協力への意識の切り替えに苦労している。

本当に無駄な苦労としか言えない。

学校不要論 学歴が社会を壊す

学校へは行く必要がないのじゃない。行ってはいけないのだ。

ダメな理由をいくつか挙げてみようか。


1 学歴が社会を壊す


学校は基本的に成績でふるい分ける。
成績は基本テストで評価する。

素行や、人間性でも評価すると言うが、
そういうものは個人(ほとんど場合先生)の主観であるから、
テストのほうがまだ平等だと言えないことはない。


テストはたまたま勉強してきたところが出ることもある。
大学受験にしてもしかりだ。

テストの問題は先生や教科書をいかにそのまま覚えているかで評価すること。

  • 歌がうまい
  • 冗談がうまい、
  • 絵がうまい、
  • サッカーがうまい


などは点数にならないので評価できないので、評価しない。
評価されるのは基本記憶力だけである。

記憶力も人間の持つ一つの能力ではある。
でも、百もある能力のうちの一つでしかない。


事業をやっていると役に立つのは情熱と洞察力だ。記憶力は必要ない。
覚えておかないといけないことはコンピュータにやらせた方が効率的だ。

にもかかわらず人を評価するのに記憶力だけしかないから

情熱も洞察力もない記憶力しかとりえのない人間が
大学に行き、官庁や一流企業に入社する。
そしてそういうやつが高級官僚や大企業の社長、銀行の頭取になる

成績のいいやつは基本、発想力に欠けていることが多い。
(すべてとは言わないが)

そういう人間は独創性のある人間を理解できないからとても嫌う。
そして、保身に走り、周囲に似たような人間を集めて満足する

これが日本を崩壊させているのだ

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歴史を振り返ってみよう。

明治維新後と太平洋戦争の後、日本経済が急成長したのは
維新と戦争が学歴社会が崩壊したからだ。

意欲のある若手が急激に社会の頂点に飛び出してきた。
彼らが社会を根こそぎつくりかえ
世界が目を見張る急成長をさせた。

それが50年、70年たち若手だった人は退場する。

明治の元勲たちが世を去り、
戦後は松下幸之助や本田宗一郎が世を去り、

入れ替わり学歴で入社してきた秀才たちが支配層に入る。
そうなると井深や本田などの天才が会社に入っても潰される

そして、
戦前は無謀としか言えない太平洋戦争に突入し、
戦後はバブルで思い上がった末に崩壊した

明治の元勲が死の間際に日本の行く末を心配したそうだが、
結局、誰も止められなかった。

シャープが液晶工場の失敗で倒産寸前になって、社長が立て続けに変わった。
高橋社長は静岡大学大学院工学研究科の修士課程卒
水嶋副社長は大阪大学大学院物質創成専攻博士後期課程卒
大西常務執行役員は大阪大学経済学部卒

彼らは首を並べて失敗の原因を考えた。
彼らのだした結論は
「会長、社長になると神様になる。その人たちをきちんと補佐するには、下から意見を言えるようになっていなければならない」
「10年前からヒット商品がなぜ出ないのか。これが今日の不振を招いていると我々も思っています」。
水嶋は人材の質が低下したとはみていない。むしろ昔よりも平均的に知的能力の優れた人材が多く入社しているはずである。ユニークで面白い製品が生まれなくなったのは、やはり企業風土が変質したからだとの見立てだ。「上から言われたことをコツコツやっているだけでは駄目なんです。天の声の影響が末端まで広がっているというのが我々の認識です」。
そもそもこの認識が間違えている。
上も下も知的能力の優れた人材で固めていることが原因なのだ。

ユニークな製品が生まれないのは、
ユニークを抑圧する学校教育で優秀な成績を上げた知的な人たちが
会社に充満していること、そのこと自体に問題があるのだ。

端的に言えば「学卒採用試験制度」そのものに問題があるのだ


学校が現在の成績重視で、企業も学歴と入社試験でふるいわけている限り
日本の将来は見えてこない。

学校があるから、子どもと将来の日本はは不幸になるのだ。

➡ 次はバカを作る学校

2014年11月20日木曜日

ゆとり教育の成果

ゆとり教育は、知識重視型の教育方針を詰め込み教育であるとして学習時間と内容を減らし、経験重視型の教育方針をもって、ゆとりある学校をめざし、1980年度、1992年度、2002年度から施行された学習指導要領に沿った教育のことである。(Wikipediaより)

ゆとり教育で育った世代をゆとり世代と言うがあまり肯定的にはとらえられていない。

某芸能人が錦織圭を見て曰く、
ゆとり教育でアホが増えた分、スポーツでガンッていく人が出たのかなと思います。勉強した方がええやろと思ってましたけど、 早いうちに世界に目を向けてると、そんな結果出んねんなあ

この芸能人に限らず多くの日本人が持つゆとり世代に対する印象(=アホ)だろう。しかし、錦織氏のインタビューの受け答えはアホな政治家よりはるかに優れている。

しかし、彼らの期待に反し「ゆとり世代」は他の世代に対し圧倒的な実績を示している。
以下はそのほんの一例である。

スポーツ

香川 ブンデス二連覇
内田 CLベスト4
マー君 プロ野球24連勝 メジャー史上5位の契約金
162㌔を出した日本人最速投手 大谷
体操史上初の個人総合3連覇 内村
日本選手権水泳競技大会史上初の5冠 萩野
ソチオリンピック金メダル 羽生
ウィンブルドンベスト16 全米オープン準優勝 錦織

知能

数学オリンピック個人成績世界1位
物理オリンピック史上最高成績
化学オリンピック史上最高成績
情報オリンピック史上最高成績
科学オリンピック史上最高成績
戦後最年少で直木賞
史上最年少で公認会計士
史上初の6冠を達成した天才囲碁棋士 井山
ロボコン世界大会優勝
国際生体分子デザインコンペ総合優勝
世界中の強豪大学が参加する国際大学対抗プログラミングコンテスト日本勢初の金メダル
世界の天才だけが参加を許されるコーダーの聖地Top Coder Openを二連覇
京大入試で得点率脅威の92%超え(過去最高)
世界トップクラスの学力
大学の入試難易度は昔より上


ゆとり世代は円周率を3.14ではなく3で計算するという神話がある。
実際の教育現場では今まで通り3.14で計算している。ただどうしてもそれが理解できない児童に対しては3でも構わないと決めただけだ。それにもかかわらず、これを金科玉条のように振りかざしてゆとり教育を攻撃した。

そもそもゆとりはそれまでの大学入試に対するアンチテーゼとして、多様な才能を生かすという目的があった。ところが実際にゆとり教育を行うと学歴が低下すると非難を浴びた。学業だけにこだわらないためのゆとり教育を、学校の成績が低下すると非難するのは見当違いも甚だしい。

進学校から国立大、高級官僚か大企業へと言う単線指向から、多様な生き方を認めると言う「ゆとり教育」では、特異な才能が花開くことになる。これまでの高度成長の時は単線指向が望ましい人物像であったが、低成長時代には一人一人が自分の持ち味を最大限に生かす人が急激に成長するが、そうではない人はそれなりの人生を自ら描かないといけない。

世界は気づかなかったが、鄧小平が「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」と言ったときから単線社会から多様社会へ雪崩を打って移行始めたのだ。これは多様社会=格差社会と言い換えてもいい。

所詮、ゆとり教育を受けていない普通の人にとって、ゆとり教育が持つ効果を理解できないのは仕方ないかもしれない。

幅広い才能を有効に伸ばすという目的に、短期間で見事な成果を上げたゆとり教育をもう一度見直すべきだと考えている。

教育害毒が薄くなるだけでも子どもは、豊かな少年時代を過ごし、自らの持つ才能を上手に伸ばしていくことができるのだ。

2014年11月11日火曜日

白洲次郎

「白洲次郎、占領を背負った男」を読み終えた。
こんな人が日本にもいたのかと思った。

彼は両親の寵愛を一身に受け全国屈指の名門校神戸第一中学に入学した。
でも、この学校の「暗記中心の詰め込み教育」に疑問を感じてなじめなかった。
(先生のいうことをそのまま答案にすることがそんなに偉いのか・・・・・)
そのためか中学での成績は中の下をうろうろする程度でパッとしなかった。卒業するにあたり普通なら一高や三高に進むが、成績の問題でむつかしかった。それで父親が「そんなら、留学してしまえ」と言ってイギリスのケンブリッジ大学に行くことになった。

J.J.トムソンという物理学者の試験を受けたとき、十分復習していたので自信満々であったが、結果はあまりよくなかった。がっかりしながら見たその答案用紙には<君の答案には、君自身の考えがひとつもない>と書いてあった。

彼は英国で学ぶことの幸せをかみしめた一瞬だった。

彼は後日、真珠湾攻撃の報に沸き立つ日本に対し「今に見ていろ、数年で東京は灰燼に帰す。日本の諜報機関は机上の空論ばかりで、生きているアメリカ人をぜんぜんわかっていねえ。あんな奴らのいうことなんかあてになるか!」と今日出海に語った。

敗戦後彼は吉田茂を外務大臣に押し込み、日本の国益を守るためGHQとの激しいやり取りの最前線で闘った。

白洲がいて今の日本があるのだと言える。



日本人の海外留学は減少の一途をたどっている。外国を見て回ったが、日本人の姿は見かけなくなって久しい。
息子は今イギリスで留学しているが、そのスクールでも日本人は以前はかなりいたが、5年ぐらい前から来なくなり、最近はアジア人は中国人と韓国人ばかりだそうだ。アメリカのスクールでもまったく同じことを言われた。

いま日本は第二の敗戦を迎えようとしている。アメリカのモーテルで見たテレビはすべて韓国製で、タイムズスクエアの電飾広告は(28年前に来た時は日本メーカーの看板ばかりで驚いた記憶があるが)今では韓国と中国ばかり、日本は後ろのほうでちらほら。

共産主義の崩壊と情報化が主たる原因だとは思うが、本当の原因は学校教育にあると思っている。

従来の価値観が大きく変動しているのに、学校は旧態依然とした教育にとどまっている。白洲が言った、先生のいうことをそのまま答案にすることがそんなに偉いのかに対する答えは今も全く変わらない。

子どもは一人一人考え方も発想も違う。にもかかわらず一律の考え方を子どもに押し付けて、テストを通して強制している。先生(社会から隔絶した子どもだけの空間の支配者)に社会の道理を説いてもらいたくない。

学校へ行けばいくほど、子どもの頭は固くなり、柔軟性がなくなる。学校教育で子どもの創意工夫を押し殺しておいて、発想がない、言われたことしかできないと言われてもそれは無理な注文だ。

「言われたとおり覚えろ。」と言われそれに従った子どもが優秀だと決められ、いい大学にはいり、先生の言う通り答案用紙を埋めたものだけが「優」をもらって卒業し、官僚や大企業の幹部候補生になる。

やがてそういう人が社会の中枢にいて、優秀ではあっても独自の発想も外国人に対する高度な交渉もできない。そういう人が社会を支配するようになる。そうやって少しずつ社会は敗戦に向かう。これが学歴主義の弊害だ。

明治維新以降日本は経済軍事で高度成長をし日露戦争をピークに凋落した。その間約70年。
太平洋戦争に負け今度は経済で高度成長したがバブルをピークに凋落している。その間約70年。

灰燼から70年たつと教育が成果を上げて学歴官僚が社会を支配するのではないかと思える。

2014年11月5日水曜日

「学歴なし」「就職歴なし」の男



学校に行かず発明続ける

「学歴なし」「就職歴なし」。道脇裕氏 NejiLaw代表取締役
道脇 裕さん(NejiLaw社長)

誕生から二千年以上の歴史を持つ「ねじ」は、史上最も普及している工業品といわれている。
そのねじはいくら締めておいても何年かすると間違えなく緩む。

しかし道脇氏は19歳のころ、ねじが原因で自分の運転する車のタイヤが外れたことから、緩まないねじが作れるはずだと、ひらめき、そこにこだわった。

ねじの締める力を強くするには、ボルトとナットなど互いのらせん構造を精密に作り込み摩擦力を強くすることが研究者やねじ業界の常識だ。それは今も変わらない。 これまでも「緩まない」を標榜するねじはある。

だが、道脇氏は既存の商品は締め付ける摩擦力に頼る「緩みにくい」ねじだったとみていた。そこで、らせん構造そのものにメスを入れ、摩擦に依存しない「緩まない」ねじを実現しようとした。


2千年の歴史を覆す「ゆるまないネジ」 
NejiLawの主力品である「L/Rネジ」のボルトには、右回りで締めるナットと左回りのナット、両方に対応した山が作り込まれている。2つのナットは同じ動きはしない。互いがぶつかると、相手をロックすることで緩みを封じる。 道脇氏はねじの山の形を変えることで、用途に応じた緩まないねじを次々と発案した。

ネジ模型
機械工学の専門家に話をすると「これは理論的に不可能だ」と言われたが、やめなかった。
写真は紙粘土で作った第1号のネジ模型

L/Rネジの開発途上だった4年ほど前、米航空宇宙規格(NAS)に準拠した試験をすると、合格ラインの17分間まったく緩まなかった。それどころか、3時間ほどたつと試験装置のねじが壊れた。緩まぬねじの評判はたちまち広まった。

このねじは現在、橋梁やメガネのボルトに使われようとしていて事業を展開始めている。

道脇氏は10歳ごろに「僕は今の教育システムに疑問を感じるので、自分の足で歩むことに決めました」と言って勝手に小学校をやめて、漁師、とび職など様々な仕事を経験した。

携帯電話が広まる前から、無線機を使って双方向で同時通話できるシステムを作るなど、発明を続けた。米国に渡って学んだこともある。

学校は必要ない

道脇氏は教育システムのどこに疑問を持ったかまでは語っていないが、決まりきった常識を教われば教わるほど無駄な知識が増えて、自分のやるべきことが見えなくなると思ったんだろう。

私自身も振り返るとねじと言うものはこうなっているモノだという常識にとらわれていて、それが改良できるものと言う意識は全くなかった。想像力は学校でつぶされたんだ。

でも、小学校4年ぐらいでそんなことに気づくこと自体が天才かもしれない。