2016年11月22日火曜日

ホームスクールの学び

子どもと一緒に育ってきた。

0歳の時、家のテレビを捨てた。

小さい時から絵本を次々買っては読んであげていた。
子どもはみんなそうなのかもしれないが、同じ本ばかり何度でも読ませる。
こっちは「またかよ~~」とめげていたのが今となると懐かしい。

おもちゃは木製の電車レールが大好きだった。
面白そうだと思って買ってきてもほとんど遊ばなかったものもある。
少し成長してから、嵌ったのはカプラだった。
友達が来るたびに部屋中に広げて遊んでいた。

乾物屋でいろんな豆を沢山買ってあげたら
それを毎日部屋中にまき散らして遊び、片付けが大変だった。

息子が1歳半ぐらいで歩いて言葉もできるようになったころ、
出かけるとき電車の駅、階段の前で二つから選ばせる
私「階段にする? エスカレーターにする?」と聞く
息子「エスカレーター!」
半年後
私「階段にする? エスカレーターにする? それともエレベーター?」
息子「えーと....階段!」
三つのうちから選ばせる。
という風に、自分のことは自分で決めるように持って行った。

2歳のころGAPに息子と一緒にTシャツを買いに行った。
似合いそうなシャツを探して彼に見てもらった。
でも鏡がないとわからないので鏡を探した。
ところがKIDS売り場に鏡が見当たらない。
そこで店員に鏡はと聞いた。
店員は、鏡はKIDSにはなくて、大人の売り場にありますと答えた。
何でないのと聞くと、
子供の服は親が決めるので誰からも聞かれたことがないと言われた。
大人の売り場で息子にあてて見せたら、
息子は、違うのがいいと言って、別のシャツを持ってきた。
凄い派手で、驚いたが買ってあげた。
結構似合っているのでもう一度驚いた。
みんな子供の服は子どもに選ばせないんだと思った。

2歳から4歳まではモンテッソーリ幼稚園に通っていた。
毎日、幼稚園で自分で選んだ教具を使って自分が満足するまで遊ぶ。
先生は一番最初にやって見せるだけであとは一人でやっている。
守らないといけないのは自分がやりたい教具をほかの人が使っている間、
終わるまで、横に座ってみていないといけないこと。

4歳になった時、仕事の都合でサドベリースクールに転校した。
そこでは勉強はしないで朝から晩までただひたすら遊んでいた。
みんなと毎日のように氷鬼をやっていた。
ある時そんなに氷鬼ばかりで面白いのと聞いたことがある。
むすこは「毎回違うんだよ。」
「昨日、こうやったら捕まえられたとするだろ、」
「次の日、相手は変えてくるんだ」
「こっちも、変えてくるだろうと予測してその裏をかこうとする」
「さらに相手はそのまた裏をかいてくる」
「常に状況は変わるんだよ」
「だから、いつも新鮮で面白いんだよ」
私、「なるほど」

これって、実社会と何ら変わらないじゃないか。
子どもは遊びの中から社会の仕組みを学んでいくんだ。
遊ばないで教室で座って勉強しても、こういうことを学ぶことはないだろう。

家では歴史漫画と科学マンガが好きで毎日繰り返し読んでいた。
文章(漢字)の読みは歴史マンガで覚えていた。
三国志が大好きで全巻古本で揃えた。

6歳の入学前に小学校の教室見学会があり妻と二人で出かけていった。
返ってきたのでどうだったと聞くと
息子「つまらなそう」
私、「なにが?」
息子「みんな前を向かって座っているだけで、誰もしゃべっていない」
「あんなの嫌だ」
私「それで、どうする?」
息子「学校へは行かない」
私「そうか」
息子「ドラえもんを見ても、いじめっ子がいたりつまらなそうな宿題をしている」
「どこがいいかわからない」
私「そうか、行きたくなければいかなくてもいい」
以来、息子は絶対に教室に行こうとしなくなった。
新年度ごとに
私「一度ぐらい行ってみたほうがいいんじゃないか。」
「みんな学校へ行っているから、大人になった時授業を受けたことがない。
では話題に困るんじゃないか」と言えど、「いい」と答えていかなかった。

勉強は私が教えていた。
教えた時間は週に4回ぐらい、1回15分程度。
主に算数(数学)、国語(漢字書き取り)

4歳になって算数(割算)はこうして教えた。
ここにイチゴが6つあるとする。
お父さんと二人なら、一人何個になる?
息子「3こ?」
私「そうだ」
私「そこにお母さんが来た。」
私「『私の分は?』と聞いてきた、やばいね」
私「じゃ、何個ずつにすればいい?」
息子、しばらく考えて「2個?」
私「そうだ、6÷2=3 6÷3=2、と書く。これを割算という」
息子「なるほど」
私「じゃあ、12個ならどうなる?」

これで割り算は終了。

どうせ自然に覚えるから九九は覚えようとしなくていいと言った。
8歳ぐらいまでいくつか怪しかったが、今は全部間違えなくなった。

息子の到達レベルを見て
ほんの少し難しいと感じるあたりを狙って質問を投げる。
簡単に解いたら、さらに難しくする。
解けないと、少しレベルを下げてまた質問。
分かるところまで下げて、分かったところから少しずつレベルを上げていく。
できれば、最初に投げた質問のところまで戻っていく。
解けたらそれでおしまい。復習も予習も宿題もなし
子どもがもっとやりたがってもやらない。

何日かしてさらに難しい問題を投げる。
これを少しずつ繰り返していく。
図形(幾何)も同じ方法で立体まで覚えた
算数(代数)は2次方程式まで行った
そこでイギリスに行って終わり。

よく「漢字しりとり」をやった。
私が漢字を書いて、その部首を使った別の漢字を息子が書く、
息子は漢字辞書で探してもいいとして二人で延々と続ける。
息子は面白がって何度もやりたがった。

教えたとき気を付けていたこと、
金輪際、絶対叱らない
そして基本的に怒らない。けっして怒鳴らない。
息子を一度も叱ったことはないが、怒ったことは数回ある。
そういうときは、「お父さんは怒っている/困っている/悲しい」という。
本心から嬉しい時は褒めるが、無理して褒めない。

基本的に親子といえど対等の関係だから、
息子が嫌がったらやらない。私も嫌ならいやだという関係を保つ
叱ると親子の間で上下関係が生まれる。
結果としてどうしても無理強いしてしまう。
楽しくないと学習効果は上がらないと思っている。
さらに、それを無理するから怒鳴ったり、叩いたりする。
結果的に学習効果がないだけでなく、親子の関係も冷たくなる。
叱ることは百害あって一利なしである。

そして今。
毎年小学校の教科書はもらってくるが、
息子が一通り見て、どれも簡単すぎと言って二度と見ようとしない。

小学校の授業は全員が同じことを同じ時間にやる。
それでは早い子はつまらないし、遅い子はついていけない。

どんな親でも一日15分なら教える時間はあるだろう。
それで普通なら小学校で教えるぐらいのことは学べる。

なんであんなつまらない授業をみんなで受けないといけないのかわからない。
基礎部分だけ親が教えてあげれば、あとは自分で考えて学習すればいい。
そのために自分の道を自分で選ぶという習慣をつけておくことが必要だと思う。

自分で勉強するようになればユーチューブでいろいろ勉強できる。
最近https://www.youtube.com/watch?v=LKGI4CyAcNwを見て感激した。
大学の授業もインターネットで公開されるようになった。
無料で受けられて、優秀だと大学から呼ばれるそうだ。
本当に大事なのは学歴ではなく実力だと思う。

8歳になり、私が教えているだけでは不安を感じ始めた。
アメリカなどいくつかの学校を三人で見て歩き、
最後に見たサマーヒルスクールで本人にどうすると聞いたとき
息子は「おそらく…」と答えた。

9歳の春一人でイギリスに発っていった。
2年半たち一年の3分の2は寄宿舎にいる。
授業料も高いしそろそろ帰ってくるかと聞くが、絶対に行くと。

息子とのやり取りはだいぶ少なくなっているが
彼は私との学習の中から自分なりに必要とする授業を自分で選んで受けている。
英語、数学、IT、ドラムは受けているらしい。
(サマーヒルでは授業を受けたくなければ受けなくても一向にかまわない)

イギリスはMathのレベルが低いと文句を言うので、
もっと上のクラスに変えてもらえばと言うと、
英語が分からないからいいと答えた。

今年の夏家族でヨーロッパを旅行してまわった時彼の英語の素晴らしさに舌を巻いた。
(はじめは私が教えてたんだけどね)

遊びと勉強と分けるのがそもそも間違えで、
遊びを通じて学ぶ、学びの中に遊ぶというか、

子どもが生きるということは遊びも学びも混然一体じゃないかと思う。

2016年11月19日土曜日

2045年問題

いわゆるシンギュラリティである。

シンギュラリティとは
技術的特異点(シンギュラリティ)とは、未来研究において、正確かつ信頼できる、人類の技術開発の歴史から推測され得る未来モデルの限界点を指す。簡単に言えば、「シンギュラリティ」とはコンピューターの知能が人間を超える現象、またはその瞬間を意味する言葉。(Wikipedia)

グーグルの自動運転技術は実用化直前まできている。タクシーやトラックの運転手はいらなくなるだろう。人間の運転が禁止される時が来るかもしれない。

グーグル翻訳はかなり使えるところまで来て、実際にヨーロッパで使ってみたが、時間はかかるが短文ならほとんど問題なく使えた。帰国後バージョンアップされかなり長文でも理解可能なレベルになっている。通訳はいらなくなるだろう。


チェスも将棋も囲碁もコンピュータにすでに負けている。

裁判もコンピュータのほうが正確で公平に判決をかけるのではないかと言われている。


また耳にはめるだけで使える翻訳機Pilotが近く発売される。

人工知能はかなり実用的になってきていて、2045年より前に実用化されるだろう。

コンピュータは
  1. 寝ない
  2. 忘れない
  3. 死なない
の3要素からして劣化することはありえない。

さらに、コンピュータ同士のデータの伝達も間違え、勘違いがない。
そして、コンピュータはどんどん細小化し見えなくなる。
必要な知識はメガネか、イヤホンまたは脳に埋め込まれたコンピュータが
直ちに知らせてくれるようになるだろう。


知識のあるなしは問題にならない、
私たちの子どもはそういう時代を生きていくことになる。
そういう時代に何が必要かといえば知識ではない。


情熱と創造力だ。
どんなにコンピュータが進化してもこの二つは簡単には実現できない。
(少なくとも今の子どもたちが生きている間は)

にもかかわらず、学校は相変わらず知識の伝達に全力を傾けている。

正確に言えば文科省はそのことに気が付いているようである。
このままでは日本は世界から置いてけぼりになるという危機感はある。
にもかかわらず、教師や教育関係者には危機感がうかがえない。
さらに親である大人にも危機感がない。

その原因の一つが知識の断片テストである大学入試である。
ゆとり教育はその目的は正しかったし、成果もあったが、
大学をそのままにして小中学校を改革しようとしたがゆえに潰された。
そのため、今回は文科省は大学入試の改革に乗り出した。

しかし、そのことの意味を教師も親たちもまだわからないようだ。
相変わらず従来通りの内申書と受験塾に邁進している。

その結果がいじめ問題である。
虐めは閉鎖空間かつ価値観を強制するところに生まれる。
この小中学校において教師や学校が持つ斉一的空間が、
子どもをして環境隷属の精神を作り上げている。
それによって追いつめられてしまう子どもがより弱い子をいじめることで晴らし、
虐められる子は教師と虐める子の双方によって追いつめられる。
というよりいじめっ子は教師の潜在意識により操作されていると私は睨んでいる。
さらに親からの学校は行くものという常識の押しつけで、
子どもは逃げ場を失い自殺にまで追い込まれていくのだろう。

つまりいじめ問題は学校問題である。

いつでも逃げられると思えばいじめは発生しようがない。

ブラック企業やサービス残業は学校の持つ閉鎖強制環境になじんだ子どもたちが大人になっても自力で脱出させないように環境隷属精神を叩き込まれているからだと思う。

話題が少しずれたが、この環境隷属精神でシンギュラリティの時代に生き残れるはずがない。
なぜなら、環境隷属の精神では情熱も創造力も押しつぶされてしまうからである。

とにかく今は勉強しろ、好きなことをやりたければ大学に行ってやれ!
と親たちや教師たちは言うが、好きなことをやるべき時は12歳までで
18歳になるともう頭は出来上がっていて柔軟な発想は死ぬまで出てこない。

その結果が、20年も成長が止まった貧困国日本である。

だから私は子どもを学校に行かせることに反対している。
もっともいい方法はホームスクールだと私は考える。
親が子供の成長に合わせて指導できる。

短い期間であるがうちもホームスクールをやった。
その結果小学校へ行く必要は全くないというのが結論である。

ちなみに、私が教えたのは週に4日、一日15分。他の時間はずっと遊んでいた。
それでも小学校の教科に遅れることはなかった。
(そのことは改めて書いてみたい)
子どもが30人もいて、先生が個々の生徒に合わせて教えるなんて無理だ。
10人でも難しい。でも1対1なら簡単。親が教えるべきだと思う。

次善としては小学校や中学校では子どもが学校や教師を選べるといい。
教師が選択できるならうちも小学校に行かせていたかもしれない。
うちの子は現在フリースクールの寄宿舎にいる。
今息子が行っているフリースクールは子どもが先生を選んでいる。

その結果何の不都合もない。

子どもは授業がおもしろいから受けていると言っている。
先生は選ばれるために授業に工夫を凝らしている。
子どもの機嫌を取るために遊んでばかりだと、逆に見限られてしまう。


また、大学の受験を改革するのもいいが、
大学への国の補助金の在り方を変えるべきではないかと考えている。
今は学生数に応じて補助金を出しているが、これが諸悪の根源だと思う。
それゆえ大学は学生を入れて卒業させることに熱心だと聞く。
だから日本の大学はほとんど留年も中退もない。
入学さえすれば卒業はできる、だから有名校受験で猛勉強し、
在学中は遊んでいてほとんど勉強しない。
それに対し欧米の大学生は在学中に猛勉強するのでそこで能力的に抜かれる。

大学生や卒業生の書く論文の引用率に応じて補助金を出す方が良くはないか。
そうすれば、大学は研究や論文の指導に目の色を変えるだろう。
今は論文の引用数はGoogle Scholarですぐわかる。

すでに日本は貧富の差が生まれていて、貧困家庭の子は貧困を引き継ぐ傾向がある。
東大を出ても大企業の流れから外れると貧困に落ちる状態である。
今までの考え方で無難に生きていくことが無理になっている現状があり
時代の本流が激変していることに対する無理解が貧困を生んでいると言える。

トランプがアメリカ大統領選挙に勝ったが、
彼は中国からの輸入に関税をかけて仕事を増やすと言ったが、
給料が10分の一以下の国は中国だけではない。
他の発展途上国が喜ぶだけで、賭けてもいいがアメリカに仕事が戻っては来ない。
今のままで仕事を増やすには中国と同じ給料まで下げるしかない。

同じ仕事で同じ給料を払う企業は競争に負けて容赦なく倒産する。

先進国で生活レベルを維持するには生産性を上げるしか道はないのだ。
生産性を上げるためには人と違う考えを持つことでしかありえない。

>人と違う< ← これしかない。

学校をこのままにしておくと金太郎飴のような労働者を大量に生み出し、
2045年を待たずに日本は貧困国に転落するだろう。

未来に危機感を持つ人たちは子どもを学校から引きはがして
自分の責任で子どもの未来を用意している。

2016年11月1日火曜日

最近の学校

周辺でも学校に通っている小学校3年生の子がいる。
その子をAとする。

ある日教室でノートに書いた中で終わったものをマーカーを使って消していた。
すると、そばにいたほかの子Bに「いけないんだよ」と言われた。

Aは意味が分からないので、そのまま作業を続けていた。
するとBは「わかんねーのか、いけねぇんだといってんだろ」と怒鳴った。

そこでAは何がいけないのかと聞き返したところ
Bは「学校には先生から言われたもの以外は持ってきてはいけないといわれたろ。」

要は、学校では決められたもの以外は持ってきてはいけないことになっている。
筆記用具は筆箱とBか2Bの鉛筆3本、赤鉛筆1本、消しゴムと決まっているそうだ。

その中にマーカーは含まれていない。よってBはいけないんだというのだそうだ。

Aはたまたま校門でマーカーを配っている業者がいてもらったものだという。

先生が中に入って、Aはルール違反、Bは言葉遣いの問題を指摘した。

Aはマーカーを使っているところを先生が見て何も言わなかったと主張したが、否定された。

ということである。

ここで問題は決められたもの以外は持ってきてはいけないというルールだ。
それでは子どもの創意工夫は否定されていないのか。

人工知能が人間を追い越す時代があと20年ほどで来るといわれている。
その時子どもたちは大人になって社会の前線で戦っている。
決められたことを決められたとおりにやっていては人工知能に勝てないだろう。

そのとき生き残れるのは情熱と発想が人並み外れていないとならない。
それなのに10歳ぐらいから発想や工夫を殺していいのだろうか。

学校の枠にはめた教育が
ブラック企業から抜けられないとか、過労自殺をする遠因になっている。

いじめや不登校の直接的原因だ。

Aはそれにもかかわらずその中で工夫をしようとしているが、
Bは小学校の教師の指示を何の疑いもなく、率先して周りに強要している。

6歳から12歳という人間の基盤形成の時期にこのような考えをしみこませるのは
未来の日本を封殺しようとしているとしか思えない。

本来なら、持ってきてはいけないものを明確にすべきだろう。

持ってきていいものを指定するのはそれ以外を禁止するといういかにも安直なルールだ。先生は楽でいいだろうが

法律でもやってはいけないことは決めているが、やるべきことは決めていない。

やるべきことを決めているということはどこぞの独裁国家ならいざい知らず、
近代法治国家の規範としてはあり得ない。

このような学校という仕組みはすでに社会の変化に対応できていない。

そしてそれをよしとする教師や親の安直さにも絶望感が漂ってくる。