2014年12月27日土曜日

失敗

失敗しない、失敗に向かわない回避の方法を教えるのが学校。

でも、失敗のなかにこそ自分を成長させる要素がある。


息子は生まれたときから小遣いをもらっていない。
(ただしサマーヒルスクールでは週に5ポンドほどもらっている)

もらうのは正月のお年玉だけ。

親戚も含めてもらったお年玉は全部自分のものだ。

親は息子のお金を一切管理しない。

初めてのお年玉は1月にゲームセンターに行き一日で使い果たして帰ってきた。

それで次の正月まで一文無しで過ごした。

次の年もらったお年玉は決して使おうとしなかった。

翌年もそのまた翌年も、使わないでため続けた。
(ためるばかりで使わないのも問題ではあるが)

彼は自分の失敗から無駄遣いのばかばかしさを学んだ。

毎週、毎月こずかいをあげると無駄遣いしても少し待てばいい。

さすがに1年は一回で懲りたようだ。

成功者たちはみな、失敗の産物をよく理解している。

だから、失敗を怖れてはいないし、失敗から立ち直る術を知っている。

2014年12月21日日曜日

テストの虐殺


たとえばこの問題、間違えていると言えるだろうか

誰が見ても正解だと思う。
Twitterで画像を見るFacebookより

テストで優れた解答を考え出したとしても
あらかじめ決められた解答以外は不正解になり
成績表に響く。


また読書感想文を書けと言われて提出したが
文章に対する評価はしてくれずに
まだ教えてない漢字を使っているからと×をつけられた子がいる。

すると次から教わった漢字かどうかばかり気にして
文章には何の注意も払うことはなくなったそうだ。

教師よりうまい絵を描く子に【子どもらしくない絵だ】と言って
赤点をつけられた人は絵描きになり損ねて悔しそうだった。

こういう事態が続くと、子どもは自分の知的関心より、
先生の思惑に気を取られてしまう。

何でもどこかに正解があり、その正解を先生の顔色を頼りに
探り当てるのが勉強だと思うようになる。

平安京の成立年を答えさせる問題は定番だが、
学説を調べると諸説あり、まだ確定していない。
にもかかわらず一応決まった数字を入れるしかない。

本来の歴史はある現象が起きた原因やその結果に対する
自分の考え方を論述する方が学問に値する。

しかし、その回答に対し、教師が正しく評価できない。
つまり、採点できない。
だから、そういう問題を出すことはない。

英作文では日本語に堪能なアメリカ人に聞くと
人によって英文が違うし、仮に正しいとしても、
同じ言い方を繰り返すとバカみたいなので、
言い方を変えるのが普通だと言う。


これまで世の中で生きてきたが正解なんかどこにもなかった。

正解だと思ってきたことは基本的に錯覚か誤解であったことがほとんどだ。

唯一問題と解答が対一になっているのは算数だけだった。
数学になると答えは同じでも解法は人によって違っていた。


結局学校でテストを繰り返すことで得られたものは
問題に突き当たった時正解を探してしまう習性が付いたことだった。

だから、世の中にセミナーがいっぱいあり、コンサルがはやるのだ。
今まで、セミナーの講師や、コンサルの先生に聞いてうまくいったためしがない。

結局、自分で悪戦苦闘してとりあえず答えをひねり出すしかない。

そして、その答えは正解かだったかどうか永久に謎のままである。

そこにたどり着くまでエラク遠回りしてしまったのが口惜しい。
さらに、遠回りするためだけに學校へ行った時間を含めて
人生のうち20年ぐらいの無駄の時間を過ごしてしまった。

今息子(10歳)は全く学校へは行っていない。

だから、生まれてから一回もテストを受けたことはなく、
ほとんど毎日友達と遊びほうけている。
最近は毎日ビリヤードか卓球をやっていると言っていた。

がしかし
数学は方程式を学んでいるし
ネイティブ風の英語を話し、
ノートパソコンでプログラミングを始め
「貧困大国アメリカ」を私の本棚から引っ張り出して読んでいる。

みんな自ら好んで選んだ道である。

親はこういうものがあると言うのは見せていて
聞かれれば、教えているが
それはやりたくないと言われたらそのままにしている。

子どもの人生はいずれその子がひとりで生きていくのだ。
親や教師の出る幕はない。

子どもが小さい時は自分で自分なりの解答を探し出すための練習を
遊びの中から学んでいくことが大切だと思う。

本人ができること、できないことは自分でようく分かっている。
テストをして他人から言われる必要はない。

そのうち子どもは自然に勉強したくなってくる。
それを待つのが親の仕事だろうと、今は考えている。

人の創造性は教えられるものではない。

自らひねり出すものだ。

創造性を虐殺するにはテストを100回も繰り返せばいい。

2014年12月16日火曜日

日本国憲法を考える

「日本はなぜ、「基地」と「原発」をやめられないのか」と言う本を読んだ。

アマゾンで何気に評価が高かったのでさほど考えもなしに買ったが、めまいがするほど衝撃を受けた。

詳しくはぜひ読んでほしいが、日本がこのざまなのは敗戦処理を間違えたからだと書いてある。間違えの根本は憲法にあると著者は言う。

日本の現行憲法はGHQの押しつけであり、そのために日本の行政、立法、司法がことごとく無責任になっている。

著者も現行憲法はよくできているとしているが、基本、他人から押し付けられたものだから、日本人にとっては厳密な理解ができないし、しようともしていない。だから時々の状況で都合よく解釈し、何となくそれが当たり前になっている。

国家の基本(背骨)である憲法が国民によって緻密に考え抜かれていないため、それによって立つ法律と、行政の根拠も誰も本当のところが分りえないのだ。

そして、日本における米軍基地の存在は完全に植民地支配で、このような国は世界中ほかの国にはない。酷いいびつでそれを何とか維持しようと日本の官僚がごまかしを繰り返している。

本著の中で伊方原発の上を米軍機が低空飛行して墜落した件について、なぜそんな危険なところで低空飛行したかということについて書かれていたがそれがとても恐ろしい。
「米軍は日本の原発をターゲットに攻撃訓練をしていて、それは万一日本が米国に歯向かってきたときのため」なのだそうだ。

また、沖縄については米国は一時完全返還しようとしたが、昭和天皇がそれを断って駐留を希望した結果現状の占領状態が続いている。

日本の支配層は現在に至るまで、奴隷的隷属を自ら好んでやっているのだ。


これから私たちはみんなで真剣になって日本の憲法があるべき姿を徹底的に話し合い、よりよい姿を固めていく必要がある。

その真剣かつ、透徹した論争の中から生み出す新しい憲法をもとに日本を作り上げていくべきだと考えている。

もちろん、著者も私も平和論者だし、リベラリストだし、反原発だ。それでも本当に必要とみんなが考えるのであれば、国防軍もやむなしと思う。しかし先の大戦のときのような軍部の暴走を防ぐ厳重な縛りをかける必要はあるだろう。

私たちは明治政府が江戸幕府が結んだ不平等条約を苦心を重ねて改定していったように、戦後日本の誤った交渉により取り結んだ日米条約を平等なものに書き換えていくべく真摯な努力をするべきだと思う。

続けて「永続敗戦論――戦後日本の核心」を読んだが、これもまた茫然とする内容であった。一例をあげると、日本の領土問題、尖閣と竹島、北方四島は日本の主張に根拠が薄いと言うことなどが書かれている。

とにかく私たちが戦後受けた教育には欺瞞が満ちているということを認識させられた。


学校の問題も敗戦を終戦と言い換えるごまかしの中で膨らんでいったのだろうと思うものだ。

2014年12月9日火曜日

なぜ学校はこんなにつまらないのか

5.学校はなんでこんなにつまらないのか


学校の歴史から考えてみたい。

学校の原点は修道院の中にあった神学校だと言われている。

しかしそれが国民に対する強制教育に変えたのが産業革命である。

学校が誕生する前は子どもを誕生から育児、教育するのは親の仕事であり、
大人になると家業を継ぐのが普通であった。

鋳掛屋の子は鋳掛屋だし、百姓の子は百姓で、貴族の子は貴族だった。

そんな時代が稲作が始まった5000年前の農業革命からから続いていた。

その終わりを告げたのが産業革命である。

産業革命は蒸気機関の発明により、
それまでの人力や馬力の世界を機械がとってかわった

帆船だと3週間程度かかっていたのが1週間で大西洋を横断できるようになり
船は木造から鉄製に代わり、大きな大砲も積めるようになった。

そのためその後戦争の概念が変わった。

また工場ではパワーの大きい機械を一人や二人で扱えないので、
多くの人間を集めて同じ仕事をさせて大量生産が始まった。

機械は操作が複雑で多くの人を細かな作業に分ける分業が始まった。

決まった時間に始め、決まった作業をし、繰り返し効率よく仕事をする。

そのために、四の五の言わずに黙々と働く人が欲しかった。

でもそんな習慣のない大人にさせようとしても、まずいうことを聞かない。

そこで新しい価値観を与える学校と言う教育施設をつくり、
子どもを親から引きはがしそこに押し込んでしまう法律を作った。

これが学校の始まりである。

学校は読み書き計算を教えるだけではなく、
秩序順応の習慣をしつけると言う裏の役割がある。

これを「闇教育」といい、学校本来の目的である。

その証拠に体罰は読み書きに対してではなく、
闇教育に反した者に対し与えられる。


一方大量の材料と製品を効率よく動かすために
資本家が集まって国家を形成した。

国家が成立すると国家間で凄惨な総力戦が始まった。
地域間の奪い合いが国家を形成したと言い換えてもいい。

工場が生まれることで武器や軍艦の性能が向上し
ヨーロッパは戦争に明け暮れるようになり
大量の武器を使う戦争では戦闘員は騎士から兵士へかわった。

つまり、戦闘行為が専門職から大量の素人集団になったのである。

その点でも学校は有効であった。

国家の支配者は「工場における一斉作業」と、
「戦場における命令指揮下の統一行動」のための
基礎知識を学校教育に求めた。

学校はその期待に沿って、定時開始、一斉授業、一律教育を推し進めた。

そのために教室における教師は全権を掌握し、
その命令に対し絶対服従を子どもたちに押し付けた。


さらにヨーロッパは自国だけでなく世界を制覇し始めた。植民地である。

強烈な戦艦と武器はアジア、アフリカ、アメリカ大陸を震撼させた。

それに対抗するためには、
西洋人の教育制度を取り入れるしかないと悟った。

そうしなかった国は絶滅したか、奴隷として徹底的に収奪されたのだ。


ヨーロッパのやり方をまねるしか選択の余地はなかった、

そのためには子どもの時期から新しい価値観を植え付けるしかないと考えた。

だから、世界中の学校の仕組みはどこに行っても全く同じなのだ。


つまり学校は工場労働者と兵士の養成校として始まった。

始まってしまうとそれ自体が自己目的化して、連綿と今に続いている。


今でも途上国においては学校は有効に機能している。

学校は経済や社会が近代化する一過程として必要だったかもしれない。

しかし21世紀になり先進国では情報革命がおき、
戦争は減少し、工場生産も自動化が進んできた。

近代国家では軍も工場も変革を迫られた。変わらないと生き残れないからだ。

学校も変わらないといけないが、
今でも100年前と同じ方法や教材で授業が行われている。

それは教師や文科省が学校に適応した人で構成されているからで
自身と同じ適応できる人を育てているつもりだ。

学校は今でも変わりなく労働者と兵士を作っている。

しかし、社会はもう労働者も兵士も必要としていない。

言われたとおりに動くしかできない人間は低所得にあえぐことになる。

逆に、学校はそのものが自己目的化し、
高等教育への受験体制が整備されるようになった。


現代に必要なのは時代を切り開く情熱と閃きだ
でもそれを教えることができる先生はいない。

必要ともされていない闇教育を押し付け続けているのだ
子どもが全く求めていないものを押し付けている


だから、学校はつまらないのだ。


もっと問題は、闇教育を受けると、それに従うことが当然と思い込み、
なんら、自ら発想したり、社会を改革しなくなる者たちが生まれることである。

そういう人間ばかりになると社会は硬直化し、最後は経済が破壊される。

日本はそういう状況に陥りつつあり、
結果的に世界の潮流に乗れずに苦しんでいるのだ。

2014年12月3日水曜日

学校不要論 勉強嫌い

あるホームページで大学の関係者らしき人がこのように言っていました。
英語を勉強して、外国語の新聞や記事、本を読んで勉強しようとしたら、すぐに気づくことですが、その国の小学校、中学校で習うような科学用語や歴史用語、社会制度用語が分からないと、社会人が読むようなものは全く手も足も出ないんです。これらは別にその国で普通にテレビを観たりと普通に生活することでもある程度は身に付くと思うかもしれませんが、一回学校で教えて貰ってるのとそうでないのとでは大違いです。
これにはいくつもの矛盾点があり、小学校中学校で科学用語や歴史用語、社会制度用語を英語で教わるのでしょうか。それとも日本語でそのような言葉を習っておかないと英語でもわからないということでしょうか。

さらに、一回学校で教えてもらっているのとそうでないのでは大違いと言っていますが、どう違うのでしょう。

この時代の変化の激しい時に、学校を卒業してから初めて見ることは嫌っと言うほどあります。それが身につかないなら新しいことはすべてマスターができないということになってしまいます。

学校で勉強しまいが、そうでなかろうが、結局は同じです。

たとえ学校で教わっていても、必要な時にはもう一度勉強しなおさないと使えません。

学校は所詮時間の無駄遣いでしかないと思うのです。

でも学校は利害が絡んでいるのでなくすことができません。

問題はそのしわ寄せが子どもたちに来て、やらなくてもいい苦労をさせているのです。

今の子どもたちは夜遅くまで宿題に追われ、塾に通い、テストのために心を悩ませています。

それが子どもを深く傷をつけているということになぜ気づかないのでしょう。

子どもはもともと遊ぶために生まれてきているのだと思うのです。

途上国のテレビもない国の子どもたちは明るくてキラキラした瞳をしています。
子どもたちはお金も勉強もいらないのです、友達と山や川を走り回ることが一番楽しいのです。

日本の子どもたちが塾の帰りにリュックをしょって夜遅くコンビニの周りでゲームをしている姿を見ると本当に悲しくなります。

学歴が欲しいだけで学校に行くのではなく、勉強をしたくて行くのが学校です。

その勉強をしたくなるためには思う存分友達と土や木や花や水と遊ぶことが必要なのです。

人間にとって自然がすべての原点です。

そこから始めることで自分が何をしたいかが見えてくるのだと思います。

そうして初めて、勉強したくてたまらなくなるのでしょう。

赤ちゃんの時は聞くこと、歩くこと、話すこと、絵を見て、描くことが楽しかった

それを寄ってたかってつまらないものにしているのが学校なんです。


まだ羽根も生えていないのに、飛ぶ練習をさせるのはやめてほしいのです。

飛ぶことが嫌いになってしまいます。

自分が飛べるようになってから、飛んで見たいという気持ちになって、

それから青空の中よたよたと羽ばたいていってほしいのです。

それまでは親の庇護の下、存分にひなを楽しんでほしいなと思います。


つぎは なんで学校がこうもつまらないのかを考えてみます