2014年11月27日木曜日

学校不要論 個性の抑圧

最初に能力と言うものを私なりに考えてみた。

能力とはその人がもともと与えられたものであり、
努力しても持っている能力を増やすことはありえないということ。

こういえば身もふたもない話だが、事実だ。

ここでの能力とは可能性と言い換えてもほぼ同じ

ただ環境(育児や教育)を通じて能力を潰すことは可能だ。

子どもに否定的言葉を投げると、そのたびにその子の可能性を消すことになる。

人によって違うが、仮に1億の可能性があるとすれば、
「こんなこともわからんのか」と言えば言うたびに一つ可能性が消える。

言葉だけでなく身振りであっても子どもを馬鹿にすれば敏感に感じ取る。

1億あるからそう簡単になくなることはないが、
子どもを否定すればその分確実に可能性が抑圧される

ただし、ほめて可能性が減ることもないが、増えることもない。

ほめて、伸びたように見えるのはもともと持っていた能力が
何らかの理由で抑圧されていたのが、解放されることによる効果だと考える。

卓越した行為をみて、本心から驚いた時に発する言葉には効果があるが

ほめることを意図的に行うと逆効果になりやすい

親や教師は子どもの能力を低下させる影響力しか持ち合わせていない

これを前提に

3.個性の抑圧

30人もいる生徒に各自自由にやらせることは無理だとみんな信じている、

だから、学校に行くということは教師のいう通りに覚えることが基本である。

自分のしたいことを勝手にやると叱られる。

知りたいこと、やりたいことは誰も持っている。

にもかかわらず、やってはいけないと言われる。

授業中に自分の知っていることを教わっているとする。

つまらないから、聞いていないで、自分のやりたいことをすると叱られる。

つまらないことを、つまらないと言えば叱られる。

逆に授業の内容が分からないからと、しつこく質問することも許されない。

授業の後で先生に聞けばいいと言うかもしれないが、
半数の生徒が先生の所に聞きに来たら先生は対応できない。
分からない子はスルーして、落ちこぼれにしておかないと学校は成り立たないのだ。

つまり賢くなろうという意欲を押しつぶさないと授業が成り立たない。

その結果どうなるかといえば、

積極的に考えなくなる。

先生と違う行動や意見は抑圧される

特異な行動を取る他の子どもに対しても抑圧的になる

そこからいじめが始まる(こともある)

知的レベルの高い子ほどこの罠にはまりやすい

どんな子どもでもストレスの少ない方向に移動しようとする
子どもに限らず(単細胞生物でも)同じだ。

知的な子は教師の思惑が良く見える。

だからそれに上手に応えてストレスを減らそうとする

そうなると知的な能力を「他者の思惑に従う」方向に使うようになる

悲しいことに学校教育により優秀な子どもの可能性の抑圧が起きている

本当に特異な、独創的でかつ意思の強固な子だけが
教師の世界観を無視できるのだ

逆に知的水準が高くない子どもは先生の思惑もよくわからないし、
教科の内容も理解できないことがある。

そうなると、落ちこぼれるか、懸命になって無駄な勉強をするか、
人の足を引っ張るか、人生をあきらめてしまうことすらある。

いずれにしろ、
ほとんどの子どもは大事な成長期に学校により可能性を抑圧され、

能力のほとんどを押しつぶされて規格化された人間として押し出される


知的水準の高い子どもにとって教師は障害でしかなく、

知的水準の低い子どもにとって学校は牢獄でしかない。

(知的水準≒記憶力)

プロクルーステースのベッド」が学校の実情である

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