2014年12月21日日曜日

テストの虐殺


たとえばこの問題、間違えていると言えるだろうか

誰が見ても正解だと思う。
Twitterで画像を見るFacebookより

テストで優れた解答を考え出したとしても
あらかじめ決められた解答以外は不正解になり
成績表に響く。


また読書感想文を書けと言われて提出したが
文章に対する評価はしてくれずに
まだ教えてない漢字を使っているからと×をつけられた子がいる。

すると次から教わった漢字かどうかばかり気にして
文章には何の注意も払うことはなくなったそうだ。

教師よりうまい絵を描く子に【子どもらしくない絵だ】と言って
赤点をつけられた人は絵描きになり損ねて悔しそうだった。

こういう事態が続くと、子どもは自分の知的関心より、
先生の思惑に気を取られてしまう。

何でもどこかに正解があり、その正解を先生の顔色を頼りに
探り当てるのが勉強だと思うようになる。

平安京の成立年を答えさせる問題は定番だが、
学説を調べると諸説あり、まだ確定していない。
にもかかわらず一応決まった数字を入れるしかない。

本来の歴史はある現象が起きた原因やその結果に対する
自分の考え方を論述する方が学問に値する。

しかし、その回答に対し、教師が正しく評価できない。
つまり、採点できない。
だから、そういう問題を出すことはない。

英作文では日本語に堪能なアメリカ人に聞くと
人によって英文が違うし、仮に正しいとしても、
同じ言い方を繰り返すとバカみたいなので、
言い方を変えるのが普通だと言う。


これまで世の中で生きてきたが正解なんかどこにもなかった。

正解だと思ってきたことは基本的に錯覚か誤解であったことがほとんどだ。

唯一問題と解答が対一になっているのは算数だけだった。
数学になると答えは同じでも解法は人によって違っていた。


結局学校でテストを繰り返すことで得られたものは
問題に突き当たった時正解を探してしまう習性が付いたことだった。

だから、世の中にセミナーがいっぱいあり、コンサルがはやるのだ。
今まで、セミナーの講師や、コンサルの先生に聞いてうまくいったためしがない。

結局、自分で悪戦苦闘してとりあえず答えをひねり出すしかない。

そして、その答えは正解かだったかどうか永久に謎のままである。

そこにたどり着くまでエラク遠回りしてしまったのが口惜しい。
さらに、遠回りするためだけに學校へ行った時間を含めて
人生のうち20年ぐらいの無駄の時間を過ごしてしまった。

今息子(10歳)は全く学校へは行っていない。

だから、生まれてから一回もテストを受けたことはなく、
ほとんど毎日友達と遊びほうけている。
最近は毎日ビリヤードか卓球をやっていると言っていた。

がしかし
数学は方程式を学んでいるし
ネイティブ風の英語を話し、
ノートパソコンでプログラミングを始め
「貧困大国アメリカ」を私の本棚から引っ張り出して読んでいる。

みんな自ら好んで選んだ道である。

親はこういうものがあると言うのは見せていて
聞かれれば、教えているが
それはやりたくないと言われたらそのままにしている。

子どもの人生はいずれその子がひとりで生きていくのだ。
親や教師の出る幕はない。

子どもが小さい時は自分で自分なりの解答を探し出すための練習を
遊びの中から学んでいくことが大切だと思う。

本人ができること、できないことは自分でようく分かっている。
テストをして他人から言われる必要はない。

そのうち子どもは自然に勉強したくなってくる。
それを待つのが親の仕事だろうと、今は考えている。

人の創造性は教えられるものではない。

自らひねり出すものだ。

創造性を虐殺するにはテストを100回も繰り返せばいい。

3 件のコメント:

すみこ さんのコメント...

ばかばかしいなー。だからうちも子供にテストなんて受けさせたくない。紙切れ1枚で能力なんか図れるか?って思ってます。

とうはん さんのコメント...

お久しぶりです。
テストで測れる能力って何だろうと思います。おとなしく言われたとおりにやる能力であればいりませんね。

すみこ さんのコメント...

とうはんさんが、再開されたのをしばらく気がつかなかったんです。

「テスト受けないでどうやって子供の能力がわかるの?」と聞かれることがあります。
愚問……。