2011年4月8日金曜日

科学的知識と生活体験

人が学ぶということを考えると生活体験と科学知識の二つの面があると思う。

特に幼い子どもの場合は多くの知識は生活体験から得られる。目で見て、手で触って、音に聞き、時には濡れて、溺れて、そこから水というものを知る。やがて水が凍ることで氷になることや、蒸発して空気になってしまうこともあることを体験し、そして親から水は0度で氷になり、100度で蒸発するということを教わって、科学的知識として身につける。つまり生活体験が科学知識と統合して概念になる。これをいくつも繰り返し成長する。
子どもが幼稚園や学校に進むとこれが逆転する。先に授業などの形で国語、算数といった科学的知識を教えられ、その知識を生活体験により確認することで個人の中で概念として確立させることができる。

つまり、子どもが大人になるということは生活体験と科学的知識との相互作用の輻輳的積み重ねである。生活体験だけでは未開な原始人的生活だけで終わることになるし、科学的知識だけで生活体験を持たないといわゆる机上の空論となり、自分自身を含め、誰をも説得することはできないだろう。

文明が開く前は覚えることも少なく、なれる仕事も限られていた。だから3年から6年勉強すれば大人として仕事もできた。人間の歴史が深まるにつれ、獲得すべき知識は増大の一途をたどり、成人までにすべてを習得することは不可能となっている。一方学歴社会が少年少女に進学競争の激化という形で強いプレッシャーとなり、多岐にわたる知識の習得が要求されるようになった。その結果、生活体験をする余裕もなく、一方的な科学的知識の詰め込みという形が学校さらには家庭に蔓延することになった。

今多くの若者たちの間のニートや引きこもりなどの虚無感はこの生活体験なき科学知識の押しつけからきていると思われる。

子どもたちにとって学校や家庭は授業を受け、成績を上げることによってしか自らを評価されない場となってしまった。学校ではわずかばかりの体育や休み時間という生活体験の場を除けば常に競争にさらされている。家に帰っても塾や家庭教師や宿題に追われて、生活体験をする場はほとんどない。
そういった空理空論の詰め込みに耐えられなくなった子どもが不登校などの非常手段をとるしかない状態に追いやられていると考えている。また科学的知識偏重が、生活体験の不足となって共感性の未熟さとなり、いじめを誘発しているのではないだろうか。

12歳ぐらいまでの時期においては家の手伝いや、遊びを通じた生活体験の充実が大切であり、科学的知識は中学生ぐらいからで十分間に合うと考えている。
一例をあげればホームスクールを14歳までやっていた少年が、あるとき文字が読めないことに困って勉強を始め、18歳の時にはハーバード大学に入学したという例がある。別の例では中学生の歳まで釣りばかりしてまったく勉強をしなかったが、一念発起し、小学校6年間の教科を1年間一人で難なく習得したともいわれる。しかもその後の成長は同学年の学校へ行っている子供より早かったそうだ。

つまり、彼らは勉強を始めるまで毎日遊びほうけていたが、その中で確実に成長していたということだ。さらに学校へ行っている子どもたちが教師の言うとおりに単純に記憶していたのに対し、彼らは自らの体で、リスクを背負いながら物の道理を体験していたのだ。だから学校に行った子どもより、物の本質を見極める目が育っていた。科学的知識をその豊富な生活体験と突合せでき、概念をスムーズに確立できたといえるのではないだろうか。

子どもの生活体験をおろそかにすると、いずれそのツケを子どもが支払うことになる。
と私は思っている。

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