2012年9月14日金曜日

学校の崩壊

松本城

教育とは何かを考えてみたい。そもそも、教育には 1.学校教育、2.幼児教育、3.成人教育などがある。ほかにも音楽教室や英語教室などがあるがここで取り上げたいのは学校教育である。

日本の学校は教育基本法が基本法でこれにより各種法律や政令が施行されている。その目的を教育基本法の第一条に書いてある。

第一条(教育の目的)
教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない。

私はこの教育基本法を批判したい。

「人格の完成」が一体何を意味するかがよく分からない。人格とは言い換えるとその人の同一性または一貫性を指すものではないか。例えば無差別殺人を犯した人もそのよしあしはともかく、それなりの人格はある。(人格者とはいえまいが) だとすれば人格は誰にでもあり--赤ちゃんにでも--人格を持たない人は想像できない。それが完成した姿を想像することはさらに難しい。いまだかつて人格が完成した人を見たことがない。
しいて言うなら幼児期に前後の脈略もなく、自己主張していた子どもが大人になるに付け、論理の一貫性を習得していくと言うことなのであろうか。人格の完成と言う言葉に国家の都合のいい論理観を持つ国民を形成しようとしているように感じる。均質な人格者で構成された国が果たして暮らしやすいと思えるのだろうか。
そもそも、私は学校に人格形成を望んではいない。人格形成は両親なりそれぞれの家庭の問題であり、国家レベルで自分の子どもの人格形成を頼むつもりはさらさらない。

平和な国家および社会の形成者」と言う言葉には問題がなさそうに思えるが、戦前国家的意思で戦争を遂行し、人殺しを英雄扱いしていた。戦争に負けると一転して平和を唱えられても、ご都合主義のにおいがする。

真理と正義を愛し」と言う言葉にも引っ掛かりがある。---なんでも引っかかるんだなと思われるかもしれないが---過去わが国にこそ正義があるといって戦争した歴史には事欠かない。真理と正義は見方を変えると正反対になることもあり、違う価値観をいかに話し合いで統合するかことを教えたほうがいいのではないだろうか。

個人の価値を尊び」と言う言葉を使いながら、生徒が学びたい勉強ではなく、国家が学ばせたい授業を強制しているという現状が個人の価値を尊重していると言えるのだろうか。

勤労と責任を重んじ」には権力者の意図が透けて見える。君たち国民は権力者のいうとおり責任を負い、黙って働け、と感じ取るのはうがちすぎであろうか。

自主的精神に満ちた」、自主的精神を持つ生徒ばかりであれば教室における一斉授業は成り立たなくなるだろう。これは完全に自己矛盾している。

心身ともに健康な国民の育成を期して」という言葉には心身が不健康な国民を排除しようとしてはいないだろうか。

全体に通して感じることは国家の都合のいい国民をいかに効率的に作るかと言う意図がぬぐえない。

本来教育とは知識を豊富に持つものがその知識を習得したい人に口頭または文書で伝えることであろう。人格や躾を学校にゆだねるのは親の育児放棄だと思う。

明治時代、学校制度を日本に持ち込んだとき、特定の宗教(特に一神教)がなく日本には神対個人と言う感覚を持っていなかった。そのため教室の椅子に子どもたちをおとなしく座らせておくことが難しかった。そこで、代わりに教室内に日本の伝統的部落共同体を持ち込むことになった。

それが、今でも日本の教育には色濃く残っている。例えば騒ぐとほかの人に迷惑だと言われたり、いじめが村八分と同じ感覚で行われている。部活でも連帯責任を強く言われたり、野球部員の不始末で甲子園出場を辞退するのも同じ感覚だと思う。

このように日本の教育には共同体としての濃密な人間関係を前提として成り立っている。そのため小学校に入ると縁もゆかりもない人とクラス単位で濃密な人間関係を強要される。その人間関係には教師による一方的な指導をうけ、クラスメートとの仲良し関係を作らないといけない。そしてその理由はなんら説明されることはない。

小学校に入った子どもが教科書を見て考え込んでいるのを見て、お母さんがどうしたのと聞いたら、「国語の教科書の字と字の間があいている。そのわけが分からない」と答えたそうだ。たとえば「さくらが さいた。」のように「が」と「さ」の間に点も丸もないのにスペースが開いている。

先生に聞いたらと母さんは言ったそうだが、その子は首を振って聞けないと答えたそうだ。

その子は小学校に入ったばかりで、先生が問答無用で教え込み、疑問を抱くことを許されないとすでに感じているようであった。聞けば教えてくれるかもしれないが、その子にとって先生には聞きづらいと感じている事実がそこにはある。

学校には「子どもは黙って聞いていればいい」そう思わさせられる何かがある。

ある子は九九を使わないで計算ができるそうだが、学校では九九を覚えないといけない。九九は計算のために必要であり、それなしで計算できるのになぜ九九を覚えないといけないのだろうか。

小学校2年生の子が宿題に大人が使う漢字を書いてくると、これは教えていないから書いてはいけないと言われたそうだ。

要するに学校へ行けば先生の言うとおりにしないといけないところなのだ。先生の言うことがいつも正しいと自信を持っていえるのだろうか。私は還暦を過ぎているが、自分の言うことがいつも正しいとはとても思えない。

自分の子どもを見ていると、ある時期は算数ばかりやって、3歳で割り算まで理解した。その次は算数は何年もやらずに漢字ばかりしつこくやりたがっていた。その後、歴史にはまり三国志のマンガを全巻読んで、中国の古い漢字を何とか読めるようになった。今は英語にこだわって毎日教えろといってくる。2ヶ月ぐらいでたどたどしいが英語の絵本を読めるようになった。しかも一日せいぜい30分しかやらない。息子はその時間以外は一日遊んでいる。

息子が飽きる前にこっちからやめる。息子がやらなくなったら私もやめる。やりたいと言い出すまでひたすら待っている。

これは決して自慢して言っているわけではない。子どもはみんなあふれるばかりの好奇心を持っている。それを途切れさせないように掬い上げているだけなのだ。幼いときは繰り返し「なんで」と聞いてきたと思う。それが小学校に行くとともに何も聞いてこなくなるのはなぜか、よく考えて欲しい。

自分にも覚えがあるが、何か一つのことを集中してやるとめきめき伸びてくる。で3歳のときの割り算を忘れているかと思うと、結構覚えていて買い物のときは自分で計算している。

今の学校のように毎日いろいろな教科を細切れにして教えるより、何かひとつの教科を集中して半年ぐらいやり、それが終わると違う教科をまた半年やるといったやり方のほうが効率がいいのではと思えるのだ。しかも午前中だけ教室で教えて、午後は公園や、山や川に行って遊びまわったらかなり子どもにとっても先生にとっても楽しい学校になると思えるのだ。教育的見地から見ても異年齢で自由に遊ぶことほど子どもの知性の育成に役に立つものはない。

もちろん、これは私の息子の場合かもしれないので全部そうなったほうがいいと言うわけではない。要するにいろいろな形の学校があり、子どもたちがそれを選べるといいのではないかということだ。

大体これほど多様で難しい学科をなぜ全部勉強しなければいけないのかがまったく分からない。

読み書き計算までは覚えておいたほうが役に立つ。でもそれ以上は必要ない。

算数は割り算までは確かに必要だろう、でも分数の計算は大人になって一度も使ったことがない。古文や漢文などどれだけの人が使うのだろう。大人で広島と長崎がどっちが遠いか分からない人がいて驚いたが、実際それでも仕事上何も不都合が起きていない。

三角関数は仕事上使うが、実際に使うときになってもう一度勉強しなおさないと使えなかった。英語は外国に行くときまったく話ができなかったが、帰ってきたときにはジョークを交えて会話ができるようになっていた。

ようは必要だと思えば黙っていても勉強始める。そのほうが効率もいいし、楽しい。

延々と、12年間も意味も分からず机の前に座って、話もできず、体を動かすことも意のままにならない授業を何で受ける必要があるのだろう。人によってはラジオを聞きながらとか、鼻歌交じりだったり、教科書でなくて漫画本で勉強したほうが効率がいいかもしれない。

私には息子をそんな苦役につかせることはかわいそうでできない。そのようなところで学んでもひたすら我慢することを学ぶだけで、自ら世界を切り開こうと言う意思は押しつぶされてしまうだろう。


今巷で学校問題が問われているが、そのほとんどが不登校やいじめを問題にしている。問題は学校そのものにあるのに、そこを問わずに現象ばかりいじっている。以前学校の校内暴力が発生したとき管理強化をしてねじ伏せた。それで押さえ込まれた子どもはいじめに吹き出し、それをねじ込もうとして、今度は子どもの自殺に噴出しはじめた。子どもが自分の人生に絶望し死を選ぶとき、それを学校はこんどはどうねじ伏せるつもりだろう。

学校はまさにレミングのねずみの状態になっていて、ほうっておいても崩壊するだろう。ただそれでは子どもたちが悲惨な状態になるので、それ以前に学校を解体すべきだと考えている。

2 件のコメント:

お祭り気分のすみちゃん さんのコメント...

週末で忙しく遊んでます。だから短いコメントです。

学校、病院、ジェイル。団体で行動、生活する場所では人間は本来の能力を発揮できないそうです。home education マガジーンより。(こちらオンライン購読できます)

お祭り行って来ます!!また明日!

深~いためになる投稿ありがとうございます、親分。

お祭り疲れのすみちゃん さんのコメント...

すっごいですよね。国家に役に立つロボット製作のため~みたいな法律。
少数のエリートとあとは良く働く労働者作り工場。
何も疑問を持たずに生きていきなさいって感じで嫌だな~。
人格って、元からある素質と環境で決まりますよね。かっちこちで、つっまんな~い環境で育つとDNAで受け継がれた素質や能力がしぼんでっちゃう。うちの子は、はみ出し系に育ってます。学校に行ってなくて本当によかった。


そうそう、うちのぼんも2.3ヶ月ひとつのことに集中して、次に行くって感じです。でも良く覚えてるのよね、深く学ぶから。最近は新聞読んで新聞製作して一日が終わってます。
(友達とも遊ぶけど)
今は政治、政治、政治が頭の中を占めているらしい。

ミニとうはんどんどん大きくなってますね~。
お城もかっこいい。

キスの嵐はうちはまだ嫌がりません。でも外では恥ずかしいらしいです。へへへ。