2012年7月2日月曜日

ふたこぶラクダ

コンピュータの世界ではプログラムの世界を目指す人のうち40%しかプログラマに向いていないと言う説があります。プログラムは自然言語などと異なり、一つの論理をすべてに当てはめることができますし、そうしないとまともなソフトは組めません。残りの人たちはどうしても一つのルールをすべてに当てはめることができないそうです。頭が良いか悪いかはまったく関係ないそうです。

一方小説や絵画などの芸術系の場合はひとつの論理をすべてに当てはめては面白くもない単調な作品になるでしょう。私の知っている限りではプログラマで芸術家と言う人は寡聞にして出会ったことがありません。

かく言う私はプログラミングを生業としていますが、読む本はサイエンスやドキュメントばかりで小説は読みません。まるっきり面白くないんです。私は数学が好きでしたが古文や漢文はいっつも零点に近かったです。何でこんな勉強しなければいけないか不思議で仕方ありませんでした。

学校ではふたこぶラクダがいるといわれています。成績で分布図を描くと普通なら正規分布と言って一つの山と長い裾野ができるのですが、今の学校ではできる子どもとできない子どもの二つの山ができるそうです。

フォードがT型フォードを開発したとき同じデザインの車を大量に生産して売りまくった話は有名です。でも今はスターバックスのように多種多様な商品を取り揃えた会社が伸びているのです。

学校は今T型フォードを作った工場の行員を必要とした時代のままで止まっているのじゃないでしょうか。市場は無数の商品をこれでもかと並べて、だめだと分かればすぐに引っ込めてしまう時代なのです。当然子どもたちもその時代の要請にあわせて多種多様なライフスタイルを持って学校に来るのです。にもかかわらず学校はあいも変わらず同じ型の人間を作ろうとしています。

特に問題は小学校低学年です。就学前の多様な子どもたちを、文科省の強い意志のもとで追い詰められた教師がそのまま子どもたちを型にはめようとてぐすね引いて待っています。

そのままであればその素質を自然のまま自由に伸ばすことで、どの子もその子なりに成長するはずです。学校はどの子にも同じことを要求するから、不向きなことであれば理解できずに落ちこぼれていきます。それをまた丁寧に拾い上げて伸ばしていくだけの余裕が教師にはありません。逆にとても分かりが早い子もいるのですが、その子どもをさらに伸ばすよりもそこで待たせるようにします。二つに分かれた子どもは一方には誤った優越感、他方には息の詰まる劣等感を植え付けてしまうのです。そうやって数年たてば学校に適応できるように子どもを矯正してしまうのです。その結果がふたこぶラクダです。

皮肉なことにみんな等しく同じにしようとして、二極分化してしまうのです。

しかし、優秀な子どもも中学や高校に進むと遅れた子どもになることもあります。そんな時誤った優越感が誤った劣等感に転化して、そのとき多くの子が落ちこぼれてしまうのです。

子どもたちは長い学校生活の中で、先生という独裁的支配者の下その顔色を見たり、好まれるような振る舞いを身につけ、成績が劣る人を侮辱したり、より優れた人の足を引っ張ることに才能を発揮できるようになっても、多様なキャラクタを集めてよいところをうまく組み合わせて、カバーをしあいながら統合的に事を進めるという能力を育てられることはありません。

ふたこぶラクダの成績上位こぶは日本の没落に書いたとおり学校秀才として企業や官庁で道を誤り、下位こぶは劣等感を叩き込まれて劣悪な仕事に就くか、引きこもってしまうのでしょう。ひどいときは無差別殺人を犯してしまうと思うのです。

たぶん、かろうじて学校の害毒に犯されなかった意志の強固な子どもだけがまともな仕事(多くは海外の企業)に勤めて、自立の道を行くのだと思うのです。

どの企業も多種多様な商品を日夜開発しています。そんな時教科書のように正解が一つはあるという勉強をしていると、常に正解を探す生き方をしてしまうのです。人のやらないことに答えがあるかもしれませんが、正解はないのです。常に新しいことに挑戦していないとすぐ陳腐化してしまいます。学校ではテストを繰り返して一つの枠に収めようとします。そのため序列が生まれ、特異性のある感性を押しつぶして、結果的に日本の社会を破壊していると思うのです。テストが諸悪の根源なのです。

フィンランドやデンマークでは18歳まではテストをしてはいけないことになっているようです。それで何も問題はなく、学力は世界一を争っています。

子どもを評価して順列を付けるからふたこぶラクダになるのです。今日本には大学が豊富にあり学校を選ばなければ誰でもいけるようになりました。今こそ高校まではすべてのテストを廃止し、センター試験もやめて、大学を全入にし、ついていけないものをどんどん留年させればいいのではないかと思うのです。そして本当に優秀な人だけを卒業させることで社会の評価が上がれば、大学の格も上がっていくと思うのです。

文科省はすべての学校と教師に自由を与えるべきです。そして学校はすべての子どもに自由を与えて欲しいと思います。

8 件のコメント:

すみこaka銀龍 さんのコメント...

自由ってなんなんだって分からない大人が多いのでは?自由に生きたくても怠けてる風で罪悪感とか。

だって日本に帰って笑えるのは、週末会社もないのにスラックスはいて、ベルトしてブランドのバックを抱えてる男性が多いこと。

(まあ、格好だけじゃないけどね、)大人がリラックスして自由に生きられない。

そんな大人に子供を解き放て~なんて言っても難しいかも~。

そうそう、とうはんさんはかなり面白い大人ですよ。(つまんないと思ってるのは自分だけ)

とうはん さんのコメント...

なんか、他人とうまく合わせられないんです。理屈っぽいのか、他人と違いすぎるのか、よく分からないのですが。

自由には責任と他人の自由への尊重が前提なんですが、日本人は自由を獲得するために血を流したことがないので、本心から自由と放縦の区別がつかないんでしょう。
自由にすると好き勝手にする。だからある程度の制約は必要と考えるのですね。このある程度が曲者で、人が他人を支配する仕組みに流れてしまうのだと思うのです。また自由を求めるべき個人も自由がよく分からないから誰かに指示されたがるのでしょう。
英語の「I」はそのまま立っているのに対し、日本語では「人」と言う字はお互いに支えあって立っていると教わりますね。

日本と言う国ではお互いに依存していないと大人でないとみなされるのです。人に依存したくないし依存されたくない私としては他人とあわせるのが苦手なんだと、自分に言い訳けしています。

すみこaka銀龍 さんのコメント...

私もですう~~。人と合わせるのがものすごい苦手です。生い立ちから人と違っているので、いつも変な子扱いされてきました。そういうのに慣れちゃって~人と一緒だと不安になりますよ~。

ここに集まる人たちは似た者同士かも。。

日本大好きなんですが、人間関係ではアメリカ人の個人主義の方が私には心地よい感じです。Noって言っても友達でいられるし。

人という字ですが個人がきちんと確立してないと支えられないんでないかな~って思うんです。
助け合いと依存の区別が日本人には難しいのかも。

chibimikan71 さんのコメント...

学生時代にぼんやりと頭をよぎっていたことを、とうはんの投稿を読んで思い出しました。

一応、進学校と呼ばれる高校に行っていた私は、テストのたびに「こんなの無意味だ~・・・」と思いながら勉強していました。大学受験のときも然り。そして、学校を卒業してテストから開放されたときには世の中が急にカラフルに見えてきました。テストというものが自分の人生の中に入り込んできたときから、世界が白黒に変わってしまったような感覚をずっと持っていました。

家庭を持ち、子供を育てている今、一番役立っているスキルは、自分の小さいときに、たくさん遊んだり好きなことに打ち込んだ経験です。それから、大人になって興味をもって新しく学んだことです。みんなが同じように、同じことをカバーする必要なんてない、と私も思います。それをチェックする必要ももちろんないと思います。得意分野はそれぞれ違って良いですよね!

とうはん さんのコメント...

すみこさん
私たちは個人主義なのかもしれませんね。日本は集団協調強要社会なのかなと思います。それを小さいときから学校や家庭で押し付けられているので、自分に自信が持てないのでしょう。

自合わせられないのに合わせないといけないというプレッシャーにめげそうになります。

chibimika71さん
なぜか日本の学校は均一化が使命のようです。どの子もみんな同じにしないと気が済まないのでしょうか。でも得意な分野を持たない人には仕事を任せられませんよ。

テストにしてもただ先生が管理するために都合がいいからとしか必要性が理解できません。

きちんと教えないと学力が心配だという人は何のために学力が必要かわかっていっているのでしょうね。社会に出て学力なんぞ一度として役に立ったことはありません。

勉強の必要性に「協調性」や「社会性」や「創造性」あげる人がいますが、学校がそういうものを押しつぶしているとは思わないんでしょうかね。私は朝から晩まで友達と遊んでいたほうがよほどそういうものが身につくと信じて疑わないですね。

社会の仕事が多種多様な人間が集まってそれぞれの得手をうまく分担して目的を達成するのだとすればそれらが「遊び」の中にすべて含まれていると思いますね。

chibimikan71 さんのコメント...

とうはん、

>勉強の必要性に「協調性」や「社会性」や「創造性」あげる人がいますが、学校がそういうものを押しつぶしているとは思わないんでしょうかね。私は朝から晩まで友達と遊んでいたほうがよほどそういうものが身につくと信じて疑わないですね。

まさにそう思います。幼い子供らが、気になる人と、どうやったら友達になれるか、一生懸命に体張って試しているのを見ていると、頭もフル回転していると感じますね。

>社会の仕事が多種多様な人間が集まってそれぞれの得手をうまく分担して目的を達成するのだとすればそれらが「遊び」の中にすべて含まれていると思いますね。

これこれ!この間、子供達どうしで川で遊んでいるときに、橋を作ることになって、ウチの息子が張り切って仕切り、仕事を振り分けているのを目撃しました^^ 1人は木片、1人は石ころ・・・みたいに決めて効率よく集めていましたよ。きっと無茶なこと言えば、言うことを聞いてくれないことも出てくるわけで、そういう部分からどうやって人を使うか・・・みたいなことも体得するでしょうね。

Tamako さんのコメント...

記事の内容をブログで紹介させてください。

http://hamandeggs.eshizuoka.jp

とうはん さんのコメント...

Tamakoさん、こんにちは
どうぞ、お使いください。とうはん