2010年9月9日木曜日

犬って、なあに


息子から幼いころ「いぬってなに?」と聞かれた。
「犬はね、四本足の動物でワンと吠えるんだよ」と答えた。

分かったかどうか、分からなかったが、ある日大きな犬を見て
「ほらこれが犬だよ」と言ったその時、その犬が大きな声で
ワンと吠えた。
息子はその時泣くこともできずに、凍りついてしまった。

息子は、犬がどういうものかをそのとき知ったに違いない。

学校では犬=「ワンと吠える動物」と教えているだろう。
それ自体は決して間違えではない。
でもそれで、子どもたちは本当に犬を理解できるのだろうか。

犬に吠えられたり、抱っこしたりしたときに感じる
「おおっ」という感激があって初めて知ったことになるのではないか。
それが本質を学ぶということじゃないだろうか。


意味は言葉を言葉で説明しているに過ぎず、
大事なことは言葉の前の「無意味」に込められていると思うのだ。

人間の文化に文字は欠かせないし、
学校が実験や体験をしていることも知っている。
それでも試験という現実を前にして
学校が「文字」で何かを伝えることで、子どもの若い時期を浪費し
干からびた知識を伝えていることで、教えているつもりになっている
教育界の思い上がりがうすら見えてくる。

それは学校そのものの存在意義にかかわる問題で、
決して単純に解消しえない深い闇の中にある。


言葉
ホームスクーリングは子どもに本当の力をつけていくためのものです。そして学ぶという行為を、一生涯を通した習慣として身につけていく目的も含まれています。テストが終わればすべて忘れてしまうのではなく、学んだことがすべて自分の血となり肉となるのです。」ホーリンズ川田裕子


人類の大発明の一つとして言葉を上げることができるだろう。言葉抜きにして、人間社会が成り立つことはなかったと思う。そして、言葉にはさらに「意味」(という言葉)が付いて回る。たとえば犬という言葉には「ワンと吠える動物」という意味がある。吠えない犬もいるから正しいとはいえないかもしれないが。ち なみに辞書を調べるとかなり詳しく書いてあるし、写真が付いていればさらに分かりやすい。それでも本物の犬ではありえない。そういう意味で言葉には限界があり、それでも言葉でしか気持ちを伝えることができない。砂糖をなめたことのない人に砂糖の説明をするもどかしさをどうすればいいのだろう。

学校を考えると、所詮学校は言葉で子どもたちに説明するしかあり得ない。体験授業と いうものもないではないが、原則、机に座って先生の言うことを聞いているしかない。二世紀前には言葉や文字を体系的に考える習慣はなかったのだから、その 時点では学校は近代化に欠かせなかったのかもしれない。しかしながら、学校が普及するに従い学校が国民の啓蒙活動を果たすに伴い、学校自体が自己目的化し て、それ以上の存在として国民に教育事業を徹底し、社会自体を学校化してしまった。その結果学歴社会として、学校の在籍が職業選択にまで影響を与えてい る。

西欧の場合も同様な学校化社会が到来しているが、日本とは少し異なった状態になっている。西欧の場合はギリシャのロゴスとキリスト教 の服従が一体となった文化が形成されていて、精緻な論理と(神に対する)絶対服従の体系が学校に色濃く反映している。だから、戦前は学校に鞭が当然のようにあり、教師は神であり、生徒はそのしもべであると言う疑似的なキリスト教文化を背景にしながら、論理をとことん突き詰める精神も存在していた。それで科学的思考方法が発展し、産業革命や植民地主義が世界を席巻したのだろう。その残照の中に西欧は存在している。

一方日本にはロゴス も絶対服従も観念的にはなかった。飛鳥時代から平成の現代にいたるまで日本を支配しているのは相対優位だと思う。隣よりちょっとだけいいというのがうれしい。あまり飛びぬけても、引いても困る。テレビ的にいえば「空気」が日本を支配している。この話を進めると文化論になるので、詳しいことは別の機会にしたいが、日本ではいつも結果を曖昧にしておくことが有利であったからとい える。理由は島国で異国からの絶対権力の侵略を経験していないため、いいかえると、民族の殲滅を覚悟した戦争はなかったからだろう。

強いて例外を上げると明治から第二次世界大戦以前、軍は西欧との戦闘に勝つために強烈な訓練をして、いわゆる娑婆っ気を抜く作業をしたときである。この時期西欧流の絶対服従のためキリスト教流の神道を導入し戦争に備えたが、コテンパンに負けて飛鳥の時代に戻ってしまった。その時期でもロゴスに対する関心は高くはなかった。

つ まり、西欧の学校ではギリシャ以来の論理の追求が行われていて、日本の学校ではその代わりに空気が支配している。同じ言葉を使っていても西欧の大学は言葉の意味の意味を徹底して突き詰めるが、日本は言葉を雰囲気で使っているだけで突き詰めない。結果的に日本の学校では論理的思考が身につかない。日本にいる 限りにおいて空気を読むと言うのは処世術として意味があるかもしれないが、外国ではまったく意味を持たない。そのまま外国に行っても、上手に主張のできな い人になる。

それでは日本の精神の根源はどこにあるのだろうか。私は、欧米の口舌に対し、所作にあると思っている。日本古来の伝統芸能にしても、職人技にし ろ、絶妙なる手足の所作に日本の究極の精神がある。だから、日本製の家電にしろ、自動車にしろ、他国にない精密さがあふれている。

しかるに、日本の学校が西欧の論理にのっとった授業をすることで、日本人が本来持つ精妙な所作を失わしめているのではないだろうか。それは子どもをして親から連綿として受け継いでいる日本人らしさと、学校の強要する西欧風ロゴスの合間で立ち往生させていると思えるのだ。

それはともかく、学校では意味を通してしか教えることができないが、本来ものには言葉では伝えきれない意味(無意味)があり、それに対し何らアプローチすることができない授業が子どもに何を教えることができるのだろう。

私は学校というものは、本質的なことは何一つ伝授できないのに(から)、どうでもいい、テストや受験テクニックで子どもをたぶらかしているとしか思えないのだ。

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