1.教育を授ける
2.学歴をつける。
3.子どもを大人の社会から隔離し、経済活動の障害にならないようにする。今回は教育について考えてみた。
学校は子供を集めて手際よく子どもの成長に必要な知識や環境を提供する。
社会に出てみて、教育されたことの9割は役に立っていないし、この急激な変化の時代では学校で教えていたことがすでに定説が覆されていることすらある。学校出てからもう一度勉強し直さないと役に立たない。はじめから一人で勉強しても大して変わらない、というよりその方が効率がいい。
クラスで30人もの子供に同じことを教えることで、学校ではみんなに等しく知識がつくと思っているのだろうか。どう考えても、すぐ理解できる子とできない子がいて、どちらにとってもつまらないという意味で不幸なことである。
何で子どもを教室に無理やり閉じ込めて、好き嫌いにかかわらず、一定の時間勉強しないといけないのか全く分からない。しかも面白かろうとつまらなかろうと、今やっていた教科をしまって別の科目を出して切り替えないといけない。それでいったい、主体性というものが育つのだろうか。
テストを繰り返してクラスの中や学校の中での位置を指摘して本人に劣等感や優越感を抱かせることに意味があるとも思えない。勉強は競争ではない、一人ひとりの好奇心や探究心の発露だと思う。誰がどうあろうと自分が知りたいことを学ぶことが勉学であり、人から迫られた勉強はほとんど身につくことはない。
学校が宿題を出すことで子どもの家庭の生活にまで学校が関与することも許せない。自分の息子をどう育てるかは親が決める。その大切な家庭の時間を宿題ごときに取られてたまるか。
子どもは学校を選ぶこと、クラスを選ぶこと、先生を選ぶこと、教科を選ぶこと、登校日、時間を選ぶことのどれ一つも選択できない。学校へ行かないことすら親が断固として主張しなければ許されない。(親が主張しても法律違反だと脅されることもある) このような場所はほかには刑務所と軍隊だけだ。
子どもを学校へやるから勉強嫌いになるのだ。
それで今時の子供は指示待ちだとか、覇気がないとか、よく言うよとしか言えない。
このままでは、将来の日本人は何一つ自分で決めることができない人ばかりになるだろう。そういえば今年の日本航空の入社式の写真を見てたまげた。全員同じ色形のスーツを着ている。最初制服かと思ったが、会社からは何一つ規制していないと聞いて情けなくなった。1980年代の入社式の写真もあったが、みんな自由なファッションで式に臨んでいる。日本人はここまで落ちぶれててしまったのだ。これも学校教育の成果だろうとしか思えない。日本人は主体性がない、意見を持たないと世界から言われ続けていて、何一つ変わらないばかりか、さらに悪化している。
テレビを見て、学校へ行けばみんなそろってばかになる。
悲しいけど現実だろう。
ちなみに、私の息子は学校へ行く前だが、500字程度の漢字は読めるし、算数も分数の計算がお気に入りだ。ことに好きなのが歴史で、縄文時代から太平洋戦争まで大まかに聞き、さらに細かな時代の説明をしろとせがんでいる。 息子はごく普通のどこにでもいる子どもだ。それでも、放っておけばどんどん勉強をしている。学校へ行って何を勉強すればいいのだ。
私は息子には何一つ教えようとはしていない。たんに聞かれたことで知っていることは答えるし、知らないと一緒に調べているだけである。
これまで子どもに対して特別なことは何もしていないが、強いて言えば、家にテレビがないことと、息子を怒鳴ったり叱ったりしなかっただけだ。
まとめとして、学校教育というものは強制教育であり、子どもにとって何もメリットはないと思う。それでも必要とされている。そのことは次回。
言葉
「教科書が必要なのはむしろ教師です。指定された教科書を、指導の手引を参照しながら、そのまま実施していきます。手引には結構こと細かく、「この個所の意味を考えさせます」とか「○○について話し合わせるのもよいでしょう」みたいなことを書いてありませう。それにのっとって教師は「これはどんな意味かな…」なんて質問したりします。お芝居みたいです。」五味太郎
0 件のコメント:
コメントを投稿