叱ってはいけないの続編です。
叱ると言うことについて多くの人たちが理解していることと私の理解は違います。
叱られた子どもは親に論理的に反論はできません。知性も経験も反論するには全く不足しているのです。でも反論できないから間違えていると言い切れるでしょうか。
例えばあなたが外国に一人で行き、その国の言葉がまともに話せないとき、誰かに叱られても理解できないし、どう表現していいかわからずどうしても口ごもってしまいます、そこをさらに畳み掛けられたら黙るしかありません。
あなたの子どもはそれと同じ状態なのです。叱らずに聞いてあげて欲しいのです。粘り強く、落ち着いて、親身になって。そうすればその子もほかの人たちに同じようにするでしょう。子どもを叱ればその子はほかの子のことも叱るでしょう。
子どもが大人になって叱られたとき、理不尽にも怒鳴られたときどうなるでしょうと書きましたが、私はだからこそ叱ってはいけないと思うのです。
何人かの人を雇用していたことがあります。そのとき、私が怒ったとき、おびえてしまって黙り込んでしまう人と、怒鳴り返す人と、上手に対応できる人がいました。どうしてかと思ったので、親との関係をそれぞれ聞きました。そのときわかったのはおびえてしまう人と怒鳴り返す人は親からよく叱りつけられていたことです。
うまく対応し私を納得させた人は親からほとんど叱られたことはなかったと言いました。だから叱る人を見ても何とも思わず、なぜ叱るのかと不思議に思うそうです。
それで私は自分の子どもにも叱るのをやめたのです。
また叱られても、へこんでも、それを忘れるくらいに育って欲しいとも書きました。
私は子どもは叱られたことが理解できないから忘れると思います。でも意味もわからずに叱られた嫌な思いだけは心の奥底に沈殿していくと思うのです。それが大人になって誰かに叱られたとき泥に浮かぶ泡のように浮かび上がってくることがあるのです。そのとき感情を制御できずに黙り込んだり、夢中になって反論したり、暴力を振るったりするのだと思うのですよ。
一つとても大事なことがあります。
叱られ続けた子どもは『嘘をつくようになります』。なぜ叱られているか子どもは本当には理解できていません。叱ると言うことは親(大人)の論理なのです。大人になれば理解できることも子どもには理解できないことがいっぱいあります。子どもはそんなとき頭の上を通り過ぎるのを待つしかないのです。次に同じ状況になると親の見ていないところでやります。それで後で親からとがめられると叱られたくないために嘘をつくことになります。
嘘つきは泥棒の始まりと言いますね。私も親にひどく叱られたので、嘘をつくようになりました。そうなると、親と口をきくことができなくなり、何を聞かれても「べつに」と無視するようになりました。さらに恥ずかしい話ですが親の財布から金を抜き取ることを覚えました。そのままでは犯罪者になっていたかもしれません。あるとき嘘をつき続けることができるほど頭が良くない自分に気づいて嘘をつくことをやめました。なぜか、それきり人の金には興味が無くなりました。
子どもを叱ると、どうしても連鎖をします。叱られた子どもの態度でまた叱ってしまうのです。それが又と繰り返して、エスカレートすると最後に虐待が待っています。
本当に些細な最初で自分を押しとどめないと、どこで止めるかとても難しいのです。
新聞に『叱るのをやめられない母』の投稿があり、興味深いので抜き書きします。
3歳の娘のやることが気に入らなくて、いちいち叱っていました。あるとき食卓の塩を皿に山盛りにしてスプーンですくって食べようとしている娘を見て「何をしているの、止めなさい!」と怒鳴り取り上げようとしました。ところが娘は泣きわめいて止めようとしません。困っていたら祖母が来て「食べさせて上げなさい」と言い、孫に「少しだけ食べて、おいしかったらもっと食べていいよ」と言いました。娘は喜んで口に入れ、すぐペッペッと吐き出して泣きそうになりました。周りは大笑いになりましたが、娘は二度と塩を口に入れようとしなくなりました。
「よほど危険でなければやらせてあげなさい。危険であれば目の届かないところに置きなさい。子どもを叱ると言うことは自分の配慮が足りないのだよ」と祖母は静かに言いました。
霜田静志の『叱らぬ教育の実践』と言う本に面白い話が書かれています。
どうにも手に負えない悪さをするチムという15歳の子がいて、ものは壊す、悪態はつく、人のものは盗む、誰が叱っても全くなおらなくて、ついに盗みで捕まり収容所の所長に引き渡されたそうです。所長はチムにこういったそうです。「明日からうちに来てください」と1ポンドを渡し、「明日、これで切符を買って、1時にエバーショット駅に着く汽車に乗って一人で来てください。迎えに行きますから」と言ったそうです。みんなが驚いてその金を持ってチムは逃げるに違いないと思ったそうです。でもチムはちゃんとエバーショット駅に来て所長に釣りを返して一緒に収容所に入ったそうです。
他の人がその所長に「あなただからできる。私が金を渡して『君を信用するから、明日くるように』と言ってもこないだろう」と言うと、所長は「私は信用するなんて言っていません」と言いました。つまり信用すると言う言葉自体がその子を信用していないことを表しているのです。チムは金が欲しかったのではなかったのです。欲しかったのは自分を信頼してくれる人で、その人を裏切りたくなかったのです。チムはやがてそこを出て立派な社会人として人生を送りました。
また院長は自分の財布から金を盗む子どもがいたので、その子に「そんなに金が欲しかったんだ。後何ポンドあればいいのか」と聞き、金を渡そうとしたそうです。その子はいらないと答えて、二度と盗もうとしなくなったそうです。
アリスミラーはヒットラーのことを調べて、彼が父親からひどく叱られていたのでとても権威主義的になったと言うことと、その当時のドイツ人のほとんどは親から厳しくしつけられていたので、ヒットラーを見て無条件に父親と重ねて見てしまい、思考停止してしまったと分析しています。彼女は子どもを叱るのが当然の文化がヨーローッパに二度の戦禍を招いてしまったのだと主張しています。
私は息子を叱ったことはありません。2歳の頃タイムアウトを2回やりましたが、それ以降8歳になるまで一度もやったことはありません。それでも、何の問題もなく成長しています。人からは息子の目が輝いていると褒めていただくことが多いのも叱られていないからと自己満足に浸っています。
私は一人でも多くの子どもを「教育や、叱る」と言う強制から解放したいのです。それが私に残された最後の仕事だと思っています。
12 件のコメント:
私叱られたことないんです。。って「何言ってるんだよ、前回の記事のコメントでは母や祖母に叱られっぱなしって書いたくせに。」と、お思いでしょうが、実は私、育ての母がおりまして、幼児期は母より彼女といる時間の方が長かったんです。そんでもって彼女には叱られたことなかったんです。それはそれは暖かく育ててもらったんです。
母に、ほっぺをつねられたり、家の中を引きづりまわされたりの恐怖はしかと覚えてるんですが、たしかに何で叱られたかは思い出せません。家出したこともありました。(育ての母の家に逃げました。)
ということは、叱っても恐怖だけのこって、何も改善しないんでしょうね。
わかってはいるけど、大声を出してしまう私。
条件反射でね。。(言い訳かも)
反省しても始まらないので、たまには「こりゃ~。」と叫んでしまうかもしれませんが、「叱らないようにしようっと。」って心がけだけでもするようにします。
今日も息子っちが友達と喧嘩してたし。私が穏やかになれば、息子もちょっと変わるかもしれないし。
でも、悟りを開いていない私には「叱らない、叱らない」の念仏は苦痛なので、徐々にね。
前のコメントで言い忘れましたが、叱るという行為を立ち止まって考えるきっかけを作ってくれたとうはんさんに感謝です。
そして、ちびちゃんもみかんちゃんも優しくてお子ちゃまを第一に考えている素晴らしいお母さんということをよく知っているので、ここで出会えてお友達になれてラッキーよ♪
すみこさんは自分で親を選択したのですね。これはすごいことでなかなか他の人では難しいことだと思います。(一人だけ同じように親を選択した人を知っていますが)選択することができる育ての親が近くにいたことに感謝していいと思います。
私は逃げられなかったので大人になって社会に合わせるため大変な苦労を強いられました。
実際は多くの人は親が選択できないので、親の環境をそのまま受け入れるしかないでしょう。それを受け入れることで子どもを持ったとき同じ家庭環境を作ってしまうことが多いのです。
親から叱られすぎた子どもは親になったとき子どもに同じように叱りすぎることになる。これをアリスミラーは「虐待の連鎖」と言っています。虐待とはひどいと思うかもしれませんが、子どもにとっては大差はないと思います。
親のしつけや叱り、虐待が自分を愛するが故であると納得するしかない子どもにとって、親の行為が間違えだと気づくことには大変な苦痛が伴います。だから自分が親になったときそのまま実行することで親の行為を再認識すると同時に、親に対する不満や怒りをそのまま子どもに押し付けて心の安定を得ているのです。
これを防ぐためには親のしたことが誤りだったと認めることが重要です。親から受けた影響をまともに受けて育った自分自身の根拠が誤りであったと言う認識に至ることは相当な苦痛を伴うため、誰しもそれから目を背けたくなるのです。
でもそれをしないと子どもは大人になったとき、それを繰り返すことになり、そのまた子どもがまた繰り返すのです。どこかでその連鎖を止めないと不幸が代々延々と続くことになりかねないと思うのです。
みかんさんのご両親がどうであったかはよく知りませんが、子どもは叱るべきと言う考えの根拠はどこから来たのでしょうか。
私も息子が生まれたとき、厳しく育てるぞと思いましたが、調べているうちにこれは間違いだと気づいたのです。みかんさんの子どもを思う気持ちはよくわかりますが、世間で常識だと考えられていることも本当かなと踏みとどまって考えることも必要だと思いますね。
すみこさんは理解してくれているようでとてもうれしいです。理解できたらとてすぐできるものではありませんが、子どもを叱ろうとしたとき、これは子どものためなのか、自分の鬱憤ばらしではないかとほんの少しだけでも考えていただけるとうれしいと思います。
今度お会いするときに息子さんがどう変わったかをお聞きするのが楽しみです。
子どもを叱ったり、怒ったりしてしまった後の
罪悪感と自分の未熟さに何度嫌気をさした事か・・・・。
色々な本を読んではみるものの、なかなか血と肉にならず、結局自分も親と同じような事をしているんだと思うと、私と一緒にいるよりもやはり学校に行かせようか・・・と思う事も多々ありました。
私は幼少期に父親と祖母の厳しい言動で6歳の頃には大人なんて大っ嫌い!と憎しみの感情を抱いたのを今でも忘れられません。
親のしつけ、叱りに愛情
などは微塵も感じられず、なぜ生まれてきたのだろうと、自分をかわいそうに思っていました。
その経験から自分は子ども達を叱りたくない、理解しよう、
自分が親からされたような接し方はしたくないという思いから、子どもに関わるボランティアをしたり、保育士として働いていたにも関わらず、
我が子の子育てには客観的になれずについ主観的になってまう自分がいます。
『問題の子どもはいない、問題の親がいるだけだ』
という言葉を読んだことがありますが、身に沁みますね。
スミコさん同様、立ち止まらせてくれて感謝です!!
先日送ったメールに書き忘れましたが、今年からブログを始めました。
こちらですhttp://concertina.namjai.cc/
まだまだ慣れていなくて、本題には触れてませんが、徐々に色々書いていこうと思います。
育ての親が手をついて、実母と祖母に「どうか、あまり叱らないで下さい。」とお願いしてくれたのを憶えています。
家では敷居を踏むなとか、ちまちましたことでものすごく叱られてましたから。
家の中が泥だらけだったりすると、どうしても「なんだそりゃ~!」
と最大音で怒鳴ってしまいますが、心の中に「叱らない」としまっておけば、怒鳴りの声のボリュームがメゾフォルテくらいに小さく(?)なるかもしれません。やっぱり、徐々にです。怒鳴ると美容にもよくないし~。
十人十色。皆違ってそれがいい。
皆違うからこそ、いろいろな事が成り立つ。
完璧でないからこそ、いろいろな物が存在する。
そう思っています。
とうはんが叱らない育児をする。それでいいと思います。
子どもは叱るべきとは書いていないと思います。
わたし、書きましたか?
子供が危険なことをしたとき、私や夫が倫理、道徳的にどうかと思うことがあった時に叱ります。
常に叱っているわけではないし、常にしかるべきとも思っていません。叱らなければいけない状況があった時に叱るのです。
なぜ叱るのか。それはいけないことをいけないと伝えるためです。
話して伝わる時もあるでしょう。話して伝わる子もいるでしょう。
びしっと初めに一言言わないと聞く耳を持たない子もいるでしょう。
色々な子供がいますから。
私自身、親に叱られたことがありますが虐待をされた覚えはありません。
親に叱られましたが常に親の顔色をうかがって物事を言ったり行動したりするタイプでもありません。
ポイントを抑えた叱り方をしてもらったと思います。
とうはんの叱らない育児を私は理解できるし、否定もしません。
ただ、それに100%賛同できず、また私達家族がベストだと思う育児の方法があり、私達は私達でそれを実行しているだけです。
それだって、子供の成長や考え方の変化により変わっていくものだと思っています。
いろいろな子供がいるのでいろいろな育児の方法があっていいとおもいます。むしろそうあるべきです。
我が家では育児の中で叱ることもします。
家にはこどもが3人います。同じ親から生まれて、同じ環境で育っていても持って生まれた性格や兄弟での立ち位置での違いもありませす。
それに合わせて叱り方も違ってきます。
色々な育児があっていいと思います。
皆さんの叱るという事への考え方を聞くことができてとてもためになりました。
良いトピックだと思います。
テンモーさん、こんにちは
ブログ拝見しました。とても上品で、タイの空気が伝わってきます。
写真を見ているとそんなに日本とは違わないのかもしれないと思いました。
でも、野菜や果物がかなり違うので、ちょっと食べてみたいですね。
あと、かごかわいいので日本でも売れるかもしれません。
それと、後半の写真がうまく見れませんでした。
テンモーさんにお会いした感じではとても穏やかそうに見えたので驚いています。
なかなかご家庭のなかのことはわからないものですね。
それにしても、テンモーさんも厳しいご家庭だったのですね。
私もかなり厳しくて、小学生時代クラスの子や先生から、
君のお母さんすごいねと驚きの目で見られ、
あの子が大人になったらどういう風になるか見てみたいといわれていました。
小学生時代にあまりに厳しくて自殺を図ったこともあります。
今でも死んだ両親を許すことのできない私をもてあましています。
亀の甲より年の功といいますが
私も若くして子どもができていたら、厳しい親になっていたろうと思います。
わかっていても、なかなかうまくできないのは誰でもそうだと思います。
あまり自分を責めないでください。
叱ってしまうのは仕方ないから、そのままにして
少しでも、子どもたちがいいと思ったとき思いっきりほめたらどうでしょう。
一日何回ほめたかをカレンダーに印してみるのはいいかもしれません。
ただ人格ではなく、行動をほめるようにしてくださいね。
それと寝る前に子ども一人一人に「大好きだよ」といって抱きしめてあげるとか。
マイナスを気にしないで、プラスを積み上げていくといいかもしれません。
日本に来る(帰る?)ときはまたお会いしたいですね。
とうはん
mikanさん
貴重なご意見をありがとうございます。
私も自分の意見が全面的に正しくてほかはすべて間違えとまでは思っていません。
ただ、自分の意見を皆様に読んでいただいて自分なりに見直していきたいとは思っています。そういう意味ではMikanさんから反論していただいたことはとてもうれしいのです。自分なりの考えがより深まることがとてもありがたいと思っています。一番辛いのは誰からも何の反応もないことです。
最後に私なりに叱ると言うことをもう一度考えてみようと思います。
私は息子が食べ物でも友達でも好き嫌いをしてもいっさい口出しをしません。本人の問題だからです。ただ、一つ口うるさく言うことがあります。スープを飲むときズルズルと音をたてることは止めてくれと言います。
これは叱っていることでしょうか。
私は叱っていることにならないと思うのです。なぜなら「音を立てて飲むのは止めろ」とは言っていないからです。ここが微妙なのですが、止めてくれと言うのは願望であり依頼なのです。止めろと言うのは強制だと思うのです。
止めてくれと言われた息子はなぜと聞き返すことができます。
そこで、「(私が)耳障りだから」と答えます。それに対し、「止めろ」と言う言葉は「(君は)止めろ」と言う意味で私が主語ではないのです。私は息子が意図にそわない言動をすると「私がいやだから止めて」と言う言い方をするように気をつけています。注意するときは「私」を主語にして「君」を主語にはしません。「親業」より
これは言葉の上の些末な問題だととらえることもできるでしょうが、子どもの受け取る印象はかなり違うと思うのです。
>いろいろな子供がいるのでいろいろな育児の方法があっていいとおもいます。むしろそうあるべきです。
Mikanさんがご自宅の育児にどのような方針で進まれるかを私はとやかく言うつもりはありません。ただ、みかんさんに叱ることについて反論していただいたので、一般論として叱ると言うことの意味を掘り下げてみたいと考えました。みかんさんも叱ると言うことについてこう考えている人もいると言う程度に考えてみてください。
最後に
>皆さんの叱るという事への考え方を聞くことができてとてもためになりました。
>良いトピックだと思います。
と、おっしゃっていただいてとてもうれしいです。これからもご意見があればよろしくお願いします。
皆さん、こんにちは。
私はとうはんさんより(たぶん)ずいぶん若くして親になりましたから・・・てへへっ、
はっきり言って失敗は多いです。
せっかくアリスミラーや、そのほか良い本を読んでいても、それが自分のことだと気がつかないんですね。
ですから若いころの子どもに対する接し方の、間違い、
たとえばかっーーとして、子どもの目の前で食器を割ったとか、子どもが大きくなってから謝りました。アセアセ
Mikanさんのご意見は親だったら誰もが考える普通のことだと思います。
それでいいと思います。何も問題は起きないと思います。
とうはんさんのご意見は、このサイトらしいというか、こういう意見はほかのサイトでは、なかなかお目にかかれませんから、
貴重だと思います。いい勉強になります。
これからも、お互い本音でいきましょう。
フォーミディブルさん、こんにちは
ご意見ありがとうございます。
ま、私は昔から変わっていると言われ続けていて、今でも妻からも言われています。だから、あっちこっちで摩擦を起こしています。
でもね、ホームスクールをすると言うことは学校へは行かないと言うことなので、子どもにとっては親が気に入らなくても学校へ逃げることもできないのですよ。そこをホームスクーラーの親達には考えて欲しいと思っているんです。
これからも嫌がられても本音を書いていきますのでよろしく。
いつの間にやらコメントが10件にもなっていたのですね。叱ることについていろいろ読ませていただいて勉強になります。
ホームスクーリングしているファミリーの数だけやり方も存在しているということで、ここに面白さも苦労もすべて凝縮されているのだと思います。
ここ3ヶ月ほど、毎週決まった日に同じアンスクーリングをしている仲間どうしで子供達を預かりあってます。私は毎週1回約3時間半、2~3人の子供を自分の子供と一緒に見ているのですが、一人ひとり全然違うのでこれがものすごく大変です。家庭によってしつけ方も違うし、話の聞き方も違う。倫理的・道徳的にどうなんだろう・・・と思うことも多々あります。結局は黙っていられずに話すことになるのですが、自分の子供には通じる言い方が全く通じないこともあって、いつもどうしたものかな~と考えています。やはり、危ないときとか、明らかに誰かの迷惑になっているときなどは、速やかにそれに対処したくて気持ちが焦ってしまうんですよね・・・。
この間のコメント、「イタタタ・・・」はまさにその直後でした。
chibimikan71さん、こんにちは
子どもがいっぱい集まるとなかなか大変だと思いますね。
うちも一ヶ月に一回程度おうちカフェをやっていますが、そのときホームスクールやサドベリーの子どもたちが多いときで10数人集まって大騒ぎになります。それは上へ下への大騒ぎです。中には障子を破いたり、おもちゃを勝手に出してとっちらかしたまま、次々と出して遊んでいる子や、もくもくと漫画を呼んでいる子などもいます。親たちも集まるのですが、みんな無視して話に興じています。
うちに来たとき注意点と絶対やってはだめなことをあらかじめ教えておいて、後は子どもたちの自主性に任せています。任されるとお互いにやってはいけないことを注意しあって遊んでいますね。
結構子どもは任されると張り切ってやるもんじゃないでしょうか。
とうはん
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