2012年10月11日木曜日

遊びの勧め


「生きる力を育てる教育」から引用

最近いじめと自殺の問題がよく取り上げられる。いじめがよくないと言うことはまあ誰しも異論はないと思うが、いじめを犯罪と取り上げる考え方には多少異論を持っている。ひどいいじめで自殺する子どもが現れてそれに対し、いじめる側を厳罰に処することでいじめそのものをなくそうと試みているが、学校に警察を入れてもいじめ問題は解決するのだろうか。

私は子どもがほとんど遊んでいないことが自殺の主たる原因だろうと睨んでいる。

いじめはどこにでもあり昔からある。例えば鶏を狭いゲージに集めておけばいじめが起きる。鑑賞魚も水槽に入れておくといじめが高い確率で起きる。鶏でも広くて餌の豊富なところにおけばいじめは起きない。

私はいじめは狭い領域で競合する同種が集まったとき、高いストレスにさらされそこから逃げたいと言う感情が湧いてきて、それが許されないとき少しでもストレスを減らす、つまり、競合相手を減らす行動を取るのではないかと考えている。だからどうしても自分より弱そうな相手、または仲間からはぐれているものを攻めることになる

学校という空間を考えると、そこが鶏にとってのゲージと同じだと考えられると思うのだ。だとすれば、学校から子どもを解放するだけでいじめはなくなるといえないこともない。学校の存在を既定の事実としてそこからいじめを解消しようとしているからなくならない。学校そのものを考え直すべきではないだろうか。

それでも疑問は残る。明治維新以来学校は存在していたではないか。昔は子どもは自殺しないと言われてきた。この数年でものすごい勢いで子どもの自殺が増えて、昨年は1000人を超えている。一日3人の子が命を絶っている。いじめが犯罪であるとか、命を大事にしようといくら大人たちが言っても命を絶つ子どもの数が増え続けるのはなぜか。

自殺問題の根本にいじめではない何かがあると私はにらんでいる。現に最近の自殺の原因調査でいじめは3割にも満たないという結果を見た。いじめ→自殺という因果関係はもしかしたらあまり高くはないかもしれない。

1980年ごろから子どもが大きく変わったという調査もある。1980年といえば高度成長期のピークである。戦後35年たち、戦後生まれが次々と親になってきたころ、日本の社会が急速に高学歴化してきた。そして親たちが早期教育や習い事や塾に子どもたちを通わせ始めたころだ。そしてその子どもたちが今度は親になって子どもを育てているのが今だ。

今はさらに学歴社会になり、大学に行かないと仕事がないという思い込みで子どもたちを追い込んでいると思われる。

今の子どもたちが外で遊ぶときは手帳の予定を見ないと遊べないといわれる。それで一部の親は子どもたちをサッカークラブや、野外合宿キャンプなどに送り込んで遊ばしているつもりになっている。ところがこれらはまったくだめではないが、私は子どもたちだけで遊ぶことがまず必要だと思う。その機会が今は余りない。

私が子どものころは塾へ行く子は少なかったし、親も子どもの勉強に対して関心も高くはなかった。原っぱはいっぱいあったし、沼もあってそれでも誰も危ないと騒ぐこともなかった。だから子ども時代は悪がきもおとなしい子も年の差もなくつるんで遊んでいた。

年少の子は年上の子どもの振る舞いを見てあこがれ、年上は小さい子が邪魔だったがそれでも一緒に遊べるように工夫していた。だから小さい子は大きくなると自分より小さい子に対しどうすればいいかをよく知っていた。そうやって力が違うもの同士が楽しく遊べるやり方を子どもたち同士で考えながら遊んでいたのだ。

これが私の言う遊びの基本である。

サッカーや野球で遊ぶとルールを守らないといけない。そのルールは大人が決めたルールであり、自分たちでは変えられない。(打ったらいきなり2塁に走っていいなんてできない)

でも鬼ごっこや秘密基地は自分たちでどうにでもルールを変えることができる。そこでは自分の思い通りに行動しようとすれば仲間に入れてくれない。みんなの言うとおりにしていてもつまらない。どこまで主張し、どこから妥協するかを自然に学ぶのだ。

これが遊びの持つ学習力で親も学校も習い事でも塾でも教えられない。

ところが、学校へ行けば子どもは何でこんな成績なんだ、遊んでいる暇があれば勉強しろ。塾へいけ。と攻め立てられて大事な主張と協調の呼吸を学ぶことはない。
社会に出てからの仕事では勉強が役に立ったことはほとんどないが、主張と協調のコンビネーションはとても役に立つと言って過言ではない。

学校では次々と教科を押し込まれ、家では成績で攻められ、唯一の息抜きは学校の休み時間の子ども同士の遊びだろう。学校へ行く子どもたちに学校が楽しいかと聞くと、多くは楽しいと答えるが、何が楽しいと聞くと友達と会えるからという。誰も勉強が楽しいとは言わない。

でも、どの子も小さいときから異年齢の集団で遊んでいないから主張と協調のリズムを体験できていない。いじめ自殺の後のアンケートでクラスメートや先生が遊んでいると思っていたと書いているのは本心だと思う。いじめている側もいじめられている側もクラスメートも先生すらも遊びだと思い込んでいたのだと思う。学校がいじめはなかったという報告をするのもむべなるかなである。

あるとき急に遊びがいじめに転換する。だからそれを見逃していたとしても誰も責められない。いじめる側も遊びからいじめに転化したとは思ってもいない。いじめられる側も余りに急転換したのでそれに対する対応ができない。というより経験がないので対処を思いつけない。逃げ場がないまま追い込まれていく。

それではいじめでない自殺は何かを考えてみたい。私はこちらのほうが多いと考えている。

それは教育そのものの問題でもあるが、幼児期から早期教育、習い事、クラブ、学校、塾、宿題、家庭教師と自分が自由にできる時間を持てなかった子どもは基本的に物事を本質から考えることができない。物事はすべて教わるものだと単線思考に陥る。

異年齢の遊びをたっぷり経験した子どもは複合的思考をする。あれがだめならこれ、それでもだめなら今は我慢して次に何とかしようと考える。

学校教育は単線思考でできているから、それに乗っている間はとても安心できる。ところが中学生ぐらいになると能力の格差が歴然としてくる。そのとき単線思考では一本乗り遅れると次々と落伍して人生が真っ暗に思えてくる。それに追い討ちをかけるのが親だと思う。

一昔前なら校内暴力で窓ガラスを割ることもできた。管理教育が進み押さえ込まれた子どもたちは逃げ場を失っている。つまり狭いゲージの中の弱い鶏になってしまった。

さらに昔は異年齢の遊びを経験していたから、そういう追い込まれたときの対処や、追い込む側もこれ以上は危ないという感覚を共有できた。今の子どもたちはもとより親も先生もその感覚を持ちあわせていない。子どもは悲鳴を上げるタイミングや声の上げ方も分からないので、ある日突然死に逃げ込んでしまう。

いじめた子どもを犯人に仕立て上げて、それで解決すると考えるべきではない。いじめた子もいじめられた子もそして自殺した子どももすべて私たち大人たちの学校信仰が生んだ犠牲者だ。

親は子どもを遊ばせるべきだ。誰にも管理されない自由と危険に満ちた多様な子どもたちの自主的な遊びである。それなしで子どもの自殺を減らすことはできない、勉強している暇があったら遊べと私は思っている。

5 件のコメント:

Wisconsin Vegan Abolitionists さんのコメント...

遊び!遊び!遊び!そうなんですよ。これが一番大切。

でも最近私の周りのお母さんたちは、大学進学に頭が向いてるせいか、○○クラブとか言う集まりにしないとだめなんですよ。

だから、「算数ゲームクラブ」と言うのを作ってしまった!この算数と言う言葉が利いて結構集まりました。簡単で楽しいゲームをやるだけなんだけど、「遊びながら自然に算数のスキルを身につける。」というワザとらしいテーマで呼びかけました。

うちのボンは「なんでただの遊びじゃだめなの?」とブーブー。「だってただの遊びじゃ他のお母さん満足しないんだもん。」って感じなんですよ。

私の周りで本当の意味でアンスクールしている友達は4~5家庭。

それでも違う年代の子と遊ぶ時間は学校の子供よりは多いですが。

ホームスクールでも意地悪な子いますよ。たくさん時間があるから、いじめが起きたときは話し合いをします。それでもだめなら、遊ばない。意地悪してると友達0になるんです。

自殺する前に助けを求める場所が無いというのが悲しすぎですね。
親も先生も「がんばれ!」「がんばれ!」の一辺倒ですから、弱いところを見せられないんでしょうね。

遊びの中から自分の得て不得手がわかってくる。役割ができる。協力できる。相手をいたわる気持ちが生まれる。

先日、新入りのホームスクーラーの子が、けんかも何にもしていないのに、いきなり息子の悪口を言ったそうです。仲良し軍団がものすごい勢いでかばってくれました。

ただの遊びから学ぶことが一番多いのにね~~。

今日は正真正銘のアンスクーラーのお友達が遊びに来ます。あ~よかった。




chibimikan71 さんのコメント...

私のまわりも、みんな習い事に忙しくしてるんですよね~。プリスクールがせっかくプレイベースで、大人が仕切らないように、子供のペースで遊べるようにって理念を抱えているにも関わらず、スクール前後の時間は習い事で忙しくしている子供がほとんどです。もったいない。

みんな子供に良かれと思ってやっているとは思うけれど、(いろいろ経験させてあげたいんだそう)見ていて忙しくてじっくりと遊べない感じがいつもしています。これで普通に学校に入ったら、それこそ自由な時間ゼロになっちゃいますね。

そんな中、今日のホームスクーラーのポットラックで、終わる間際に外で子供達が落ち葉をかき集めて落ち葉ファイト?をしているところを見たひとりのママが、「あら、これからジムナスティッククラスなのよ。でも、まあ、ジムは来週もできるけど、この葉っぱで子供が遊べるのは今しか出来ないことね。今日はこのまま遊ぶことにしよう。」と言っていたのを聞いて嬉しかったです^^ 彼女、実は私のベストフレンドでもあり、彼女の子供2人と我が家の子供2人は週の半分近くを一緒にケンカしつつ、遊んで過ごしています。去年まで実はいちばん苦手だったお友達が今ではいちばん仲良し。そして、他の子がうちの息子とは遊ばない!といったときに彼女の息子がその子供に向かって、「一緒に遊べないなら、僕は今日キミとは遊ばないよ」と言ったそうです^^ とことん遊びつくさないと、こういうことって学べないだろうな、と思いました。 

フォーミディブル さんのコメント...

そうそう、私の子どものころもそんな感じでした。
外で遊ぶって、大事だと思います。
昔は当たり前だったのに、
いなかでもあまり遊んでませんよ。
怖い人がいるから??

子ども同士のつながりって大切だけれど、
たまたま日本は人口密度が高い国なので、いっぱい人はいますが・・・

たとえば日本でも過疎の村や、学校があっても生徒が一人か二人しかいないような分校。
私の甥姪は隣の家は一山越えた向こう側みたいな、一軒家に住んでいましたし、
オーストラリアへ行ったときに、国立公園の熱帯雨林のなかで、観光案内のような仕事をやっている一家がいたんですが、
子どもは学校へ行っていないような感じだったり、
そういうのはどう思われますが?

これらは極端な例かもしれませんが
私はやっぱり基本は親子なんではないかと思うんです。

親子の関係が良ければ、もっと人口密度のたかい人間関係に飛び込んだときにも、
きっとうまくやってくれるんじゃないかと思うんですが・・・


>すみこさん、
ホームスクーラーでも意地悪な子いますよね。
でも、どうしてもだめならなら離れられるから、お互いに良いんですよね



とうはん さんのコメント...

すみこさん
今、伊豆大島に子ども5人を引き連れて遊びに行き帰ってきましたが、子どもたちは3日間休みなく走っていました。4歳から10歳までみんな、あきもせずに転げまわってそれだけで楽しいんですね。

子どもにがんばらせるのはだめだと思いますよ。大人ががんばれと言ってがんばってしまう子は疲れ果ててしまうし、がんばれない子は劣等感を持っちゃうだけで何のメリットもありませんね。

chibimikan71さん
とことん遊びつくす。そうなんです、とことんまで遊びつくした経験は将来大人として生きていくために必要な経験だと思いますね。

フォーミーディブルさん
遊びは子どもにとっての栄養素です。これなしに大人になることは難しいと思っています。
子どもの人間関係の基礎が親子か友達かと言う点についてはすでに多くの発達心理学で検討されています。そこでは人としての基礎は親から受けますが、人間関係の基盤は友達からの影響力が大きいと言われているようです。大体3対7だそうです。
ただ、近所に友達がいないケースで人間関係を構成できないかと言えばそんなことはないと思います。ただ親としてはいろいろな役割をとっかえひっかえ演じる必要があると思います。あるときは兄であり、親であり、弟であり、友達であり、いとこであり、おじさんであり、おばさんでありと言う風に状況によってどんどん切り替えて相手をする必要があるかなと思うのです。
でも、子どもにとって友達とはけんかをして付き合わないという選択もありますが、親に対してはありません。親と別れるとご飯が食べられなくなると言う恐怖をどの子どもでも内心持っています。
虐待している親に対して子どもがその虐待を受け入れて親を愛し信頼しているふりをするのはごく普通に見られるそうです。
ところが友達間では何の遠慮も要りませんからそこで人間関係の訓練ができると私は思っています。親は子どものことを分かっていると言う錯覚に陥りやすいものなんです。いつでもそこを心して付き合うように心がけているつもりです。

フォーミディブル さんのコメント...

とうはんさん、

丁寧な解説をありがとうございます。
セーフティーネットというか(この表現が適切かどうかは分かりませんが)、
そういう意味でも、自然な子供同士の世界はうまくできているのかなと、思いました。

件の姪は、ドイツ人と結婚して今ドイツにいますので、どうしているのかなと思って、
こんな質問をしてしまいました。