日本では学校でも会社でもいじめがあふれている。サービス残業もブラック企業も同じだ。学校の先生も学校からいじめられているし、ニートやフリーターは日本社会の弱者へのいじめと取れないことはない。その根源に学校制度の歪が潜んでいる。
先ず学校制度、そして教師、さらにクラス、最後にいじめることいじめられる子と解決しないと、表面を糊塗しているだけで解決には至らない。しかし、一般にマスコミや保護者からはいじめることいじめられる子の間の矮小化した問題とされることが多い。
実際に子どもの自殺では、いじめがあったか否かの点が問題になっているが、主たる原因はいじめより学校の方がはるかに多い。
必ずしも楽しいとは思えない勉強を否応なく強制された子どもが、学校嫌いになっても親から登校を強制され、逃げ場の失った子が自分より弱い存在に鬱憤を晴らす行為がいじめであると理解している。
この構造は学校と教師の間にも存在している。サービス残業を強いられ、成績不良の責任を負われる教師は、露骨に「指導死」まで至るのは論外だが、多くは授業についてこれないまたは邪魔になる子どもの存在に対し、不快感を感じる。それを敏感に感じることができる子どもが「いじめてもいい存在」として先生の代理としていじめに走る。これがいじめの本質だと思う。
子どもは大人と同じでそれぞれが個性的であり、先生の意図通りできない子と、先生の意図を敏感に感じてそれに雷同してしまう子がいる。さらにはそのいずれでもない子は傍観者になる。ごく例外的にいじめを止めさせる子もいるが、それは先生の意図と異なるため、いじめられる側になることが多い。
つまり、学校と教師が意識的か無意識化はともかく、いじめを構成する主たる要素になっていることに、無自覚なことがいじめが解消しない最大の問題である。
私は小学生時代は勉強をせずに遊んですごし、そのため小学校は保育園として子どもたちを見守ることに徹し、聞かれたことには適切に指導するが、本人の好きに過ごさせた方がいいと考えている。
そうすると多くの子は一緒に遊ぶことに夢中になる。遊びはコミュニケーションと創意工夫の宝庫だ。遊ぶためには協調性が欠かせないし、そのために主張することと妥協すること、相手の所作の先読みをすることを学ぶ。
一方的な授業と違い、試行錯誤を思う存分できるから、ものごとの本質を理解できるようになる。独創性は机上の空論ではなく、本質からのみ生まれるのだ。
また年齢を超えて遊ぶことで、幼くて一緒に遊べない子にも役割を振ってあげるような思いやりを持つようになる。そこではいじめは発生しようもない。これは江戸時代の寺子屋と同じである。
教育の遅れを心配する人もいるが、16歳まで全く勉強せず遊び惚けてて、漢字が読めず、足し算もあやしい子どもが、ある日大学に行きたいと言い出し、半年間集中して勉強して高認を取得し、余裕で希望する大学に入学した例も実際にある。大人になって16歳まで文字が読めなかったと言ってもだれも信用してくれないそうだ。
いじめを受けたら、学校から逃げることを薦めるコメントに対し、逃げると教育や学歴で不利になるというメッセージをよく見るが、もはや学校の教育は時代の趨勢にとり残されている。次の時代に大事なことは自ら考えだして、他人と協力して事に当たることで、知識ではない。そのいずれも学校では否定されていることに思いを致すべきだ。
今の学校は寄ってたかって、勉強嫌いを作り、自信を喪失させるために先生が苦労しているとしか思えない。
いじめは吹き出物であり、塗り薬は役にも立たない。その真因は内臓疾患にある。
先ず学校制度、そして教師、さらにクラス、最後にいじめることいじめられる子と解決しないと、表面を糊塗しているだけで解決には至らない。しかし、一般にマスコミや保護者からはいじめることいじめられる子の間の矮小化した問題とされることが多い。
実際に子どもの自殺では、いじめがあったか否かの点が問題になっているが、主たる原因はいじめより学校の方がはるかに多い。
必ずしも楽しいとは思えない勉強を否応なく強制された子どもが、学校嫌いになっても親から登校を強制され、逃げ場の失った子が自分より弱い存在に鬱憤を晴らす行為がいじめであると理解している。
この構造は学校と教師の間にも存在している。サービス残業を強いられ、成績不良の責任を負われる教師は、露骨に「指導死」まで至るのは論外だが、多くは授業についてこれないまたは邪魔になる子どもの存在に対し、不快感を感じる。それを敏感に感じることができる子どもが「いじめてもいい存在」として先生の代理としていじめに走る。これがいじめの本質だと思う。
子どもは大人と同じでそれぞれが個性的であり、先生の意図通りできない子と、先生の意図を敏感に感じてそれに雷同してしまう子がいる。さらにはそのいずれでもない子は傍観者になる。ごく例外的にいじめを止めさせる子もいるが、それは先生の意図と異なるため、いじめられる側になることが多い。
つまり、学校と教師が意識的か無意識化はともかく、いじめを構成する主たる要素になっていることに、無自覚なことがいじめが解消しない最大の問題である。
私は小学生時代は勉強をせずに遊んですごし、そのため小学校は保育園として子どもたちを見守ることに徹し、聞かれたことには適切に指導するが、本人の好きに過ごさせた方がいいと考えている。
そうすると多くの子は一緒に遊ぶことに夢中になる。遊びはコミュニケーションと創意工夫の宝庫だ。遊ぶためには協調性が欠かせないし、そのために主張することと妥協すること、相手の所作の先読みをすることを学ぶ。
一方的な授業と違い、試行錯誤を思う存分できるから、ものごとの本質を理解できるようになる。独創性は机上の空論ではなく、本質からのみ生まれるのだ。
また年齢を超えて遊ぶことで、幼くて一緒に遊べない子にも役割を振ってあげるような思いやりを持つようになる。そこではいじめは発生しようもない。これは江戸時代の寺子屋と同じである。
教育の遅れを心配する人もいるが、16歳まで全く勉強せず遊び惚けてて、漢字が読めず、足し算もあやしい子どもが、ある日大学に行きたいと言い出し、半年間集中して勉強して高認を取得し、余裕で希望する大学に入学した例も実際にある。大人になって16歳まで文字が読めなかったと言ってもだれも信用してくれないそうだ。
いじめを受けたら、学校から逃げることを薦めるコメントに対し、逃げると教育や学歴で不利になるというメッセージをよく見るが、もはや学校の教育は時代の趨勢にとり残されている。次の時代に大事なことは自ら考えだして、他人と協力して事に当たることで、知識ではない。そのいずれも学校では否定されていることに思いを致すべきだ。
今の学校は寄ってたかって、勉強嫌いを作り、自信を喪失させるために先生が苦労しているとしか思えない。
いじめは吹き出物であり、塗り薬は役にも立たない。その真因は内臓疾患にある。
2 件のコメント:
いじめの問題は、いつも心が痛みますね。
管理人様の記事もですが、物凄く得心を得たコラムがありましたので、宜しければご覧になって見て下さい。
(脳科学者・中野信子さんのコラムです。)
https://www.kouenirai.com/closeup/002.html
これを見ると、頻発する災害から生き延びるために個人の意志や個性よりも、共同体の維持を優先するように性淘汰してきた特性が、学校制度によって、より強化されてしまった、あるいは悪い意味でベストマッチしてしまったように思えます。
もう……いじめから身を守るには、学校なり会社なりを大学のような風通しのよい形にするか、あるいは『小学一年生~中学二年生までの子供は共感力がとても低いため、ただただ「いじめは良くない。」と訴えるよりも、いじめをすると損をする、というシステムの構築や指導でもってあたった方が良い(大人になっても共感力をつける事ができない人は多い。そういう人には損得で学習させた方が良い。)』という考察を参考に、昔の武家の子女宜しく武芸を身に付け、いじめっこやパワハラ上司の目の前で、さりげなく(特技の披露等のふりをして)瓦割りをしたり、回し蹴りでぶ厚い木の板を粉砕するなり、薙刀を振り回すなりして見せて
「俺(私)に手を出したらお前は大損をするぞ!私にはこれだけの強さと力があるんだからな!お前の生身の肉体を粉砕するなど雑作もない。わかったか!!」
と、アピールするよう指導するしかないのだろうか…と複雑な気持ちになりました。
とうはんです。コメントありがとうございます。
中野さんのコラムを読みました。確かに面白いですね。私も天地災害が異常に多い島国という点が日本人の性格に影響していると思います。
がしかし、某フリースクールに在籍していた息子は「からかわれたことはないこともないが、一度もいじめられたことはない」と言います。もし仮に日本人の性格が影響しているならどこでも同じようにいじめが起きるのではないでしょうか。
私は逃げられない環境で束縛されるとその中ではいじめが必然的に起きると思っています。日本の学校はいろいろな意味で牢獄のような場所です。そこから抜け出そうとすれば親がそうさせないように学校と一緒に縛り付けようとしています。その苦しみから抜け出したくて「いじめをする」のではないでしょうか。
私の知り合いは高校時代にひどいいじめにあったそうです。それはクラスのみんなから毎日無視され、3年間は地獄だったと言います。そんな時、空手や武芸ではどうにもなりませんね。
親が「学校は行くか行かないかは自分で決めていい」と子どもに常に言い聞かせておけば、いじめも自殺もかなり減るだろうと思います。
コメントを投稿