周辺でも学校に通っている小学校3年生の子がいる。
その子をAとする。
ある日教室でノートに書いた中で終わったものをマーカーを使って消していた。
すると、そばにいたほかの子Bに「いけないんだよ」と言われた。
Aは意味が分からないので、そのまま作業を続けていた。
するとBは「わかんねーのか、いけねぇんだといってんだろ」と怒鳴った。
そこでAは何がいけないのかと聞き返したところ
Bは「学校には先生から言われたもの以外は持ってきてはいけないといわれたろ。」
要は、学校では決められたもの以外は持ってきてはいけないことになっている。
筆記用具は筆箱とBか2Bの鉛筆3本、赤鉛筆1本、消しゴムと決まっているそうだ。
その中にマーカーは含まれていない。よってBはいけないんだというのだそうだ。
Aはたまたま校門でマーカーを配っている業者がいてもらったものだという。
先生が中に入って、Aはルール違反、Bは言葉遣いの問題を指摘した。
Aはマーカーを使っているところを先生が見て何も言わなかったと主張したが、否定された。
ということである。
ここで問題は決められたもの以外は持ってきてはいけないというルールだ。
それでは子どもの創意工夫は否定されていないのか。
人工知能が人間を追い越す時代があと20年ほどで来るといわれている。
その時子どもたちは大人になって社会の前線で戦っている。
決められたことを決められたとおりにやっていては人工知能に勝てないだろう。
そのとき生き残れるのは情熱と発想が人並み外れていないとならない。
それなのに10歳ぐらいから発想や工夫を殺していいのだろうか。
学校の枠にはめた教育が
ブラック企業から抜けられないとか、過労自殺をする遠因になっている。
いじめや不登校の直接的原因だ。
Aはそれにもかかわらずその中で工夫をしようとしているが、
Bは小学校の教師の指示を何の疑いもなく、率先して周りに強要している。
6歳から12歳という人間の基盤形成の時期にこのような考えをしみこませるのは
未来の日本を封殺しようとしているとしか思えない。
本来なら、持ってきてはいけないものを明確にすべきだろう。
持ってきていいものを指定するのはそれ以外を禁止するといういかにも安直なルールだ。先生は楽でいいだろうが
法律でもやってはいけないことは決めているが、やるべきことは決めていない。
やるべきことを決めているということはどこぞの独裁国家ならいざい知らず、
近代法治国家の規範としてはあり得ない。
このような学校という仕組みはすでに社会の変化に対応できていない。
そしてそれをよしとする教師や親の安直さにも絶望感が漂ってくる。
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