学ぶということは好奇心の発露だ。
幼い子供を見ると目に入るものを触ってみたい、舐めてみたい、立ってみたい、歩いてみたい、しゃべりたいと言う欲求に基づいて自ら行動する。決して親は立ってご覧とか、歩いてごらんとは言わない。たとえ話しかけても意味は理解できないと思うからである。
その後走ったり、くるくる回ったり、唄を歌ったり、少しずつ自分のできることを広げていくが、親もさあこれから30分間は走ってみようかなどとは言わない。子どもが走りだしたら子どもが転げないように気を配って一緒に走るだけだ。
これらはもともと子どもが持っている自然な好奇心だ。見てみたい、やってみたい、遊んでみたいと言う好奇心が赴くままに自ら動く。
ところが学校へ行くと途端に決められた時間に決められた場所にいて、教師のいうことを聞いていなくてはいけない。自分の好奇心は無視され、先生の言いなりにならないといけない。それまでの幼児期に許されていたことが学校へ行ったとたん何一つ許されなくなる。
歴史上の発明や発見は好奇心に突き動かされていてやむに已まれずに突き進んだ結果生まれてきた。それはまさに幼児期の子どもと同じ精神構造だ。
子どもが100人いれば100人とも学校に行く前は科学者であり、発明家であり、芸術家だ。
学校へ行くことで90人は学校のシステムに押しつぶされてただの人になる。残りの10人が学校の圧力をはねのけて世界を変える人が出てくる。けれど、本当は90人の中にも一定の割合で芸術家や発明家であったり、革命家がいるはずなのに、つまらない会社生活と年金生活を送って終わる。
産業革命後の大量生産と戦争の時代はおとなしく言いなりになる人が沢山必要だったが、時代は変わった。上の人の言う通りにやっていると仕事ができた時代は終わった。
今は格差社会が始まり、今後さらにひどくなる。言うなら戦国時代に戻ったような時代だ。当時のように刀や槍を持って戦うことはないが、ITを武器に命がけの戦争の時代に入った。
大企業でも情報化により人はいらなくなり、国際化で工場を国外に出すことで日本では人が余るようになった。
そこで役に立つのは人のやらないことに目をつけて、果敢に挑戦する人だ。10のうち9失敗しても一つ成功すれば成果が上がることに経営者は気づいた。言い換えると言われたまま挑戦しない人より、失敗する人が求められている。失敗しない人は成功もしないのだ。
学校では失敗が許されない。すべての試験で成功した人が最も優秀で、そういう人が高級官僚になり、失敗しない仕事をして日本を衰退させている。
そして子どもたちは学校に行き教師の言うままに覚えて実行すること、これを延々と繰り返すことで高い評価を得る。好奇心の赴くままに自由に勉強しようとすれば赤点をもらってダメ出しされる。そうなれば好奇心を封殺するしか生きていけない。
教師が子どもたちに好奇心によって自由に学んでほしいと思ってもできない。それをすることで学校システムを維持しているすべての組織と人の生活が成り立たなくなることを怖れている。
そうやって学校が自分自身を守るために、子どもたちの好奇心を押し潰しているのだ。好奇心をつぶされた子どもは自分のためではなく、誰か知らない人のための人生を生きることになる。
自分のために生きない子は生きることを楽しむことができない。
2 件のコメント:
>子どもが100人いれば100人とも学校に行く前は科学者であり、発明家だ。
本当にそう思います。それと、芸術家も。
すみこさん、
失礼しました「芸術家」を失念していました。
芸術はすべての科目の母ですね。芸術(美術や音楽)をすべての学科に組み込んだ学校では学業成績が飛躍的に伸びたという話を聞いたことがあります。
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