15~34歳の世代で死因の第1位が自殺となっているのは先進7カ国では日本のみだそうだ。世代を通じても日本の自殺は異常に高い。日本の青少年のいじめや体罰、大人でも倒産など、比較的簡単に自死に至る。日本は宗教的に自殺に対する罪悪感が薄いというのはあるだろうが、それにしても自殺がこれほど多いということは何かしら日本独特の原因があると考えることができるだろう。
なぜか?、それを考えてみたい。
私はその原因を教育に求めてみた。現在、若者たちには常に共通一次に代表されるマークシート型解答が求められている。つまり、家庭も学校も子どもたちに子どもたちにマークシート型教育を施している。言い換えると、正解が一つはあるという問題しか教えない。というより一人一人にきめ細かく教えていればたちまちほかの学校のマークシート型教育に負けてしまう。だからどうしてもそうならざるを得ない。言い換えると単一目標型教育と言えるかもしれない。
文科省や学校や教師は「考えさせる授業」と謳うが、実際にはそんな余裕はない。それに「考えさせる教育」という言葉も自己矛盾をはらんでいる。考えるという行動は自発的(自由)な思考からしか生まれないと私は思う。考えさせるという言葉には考えることを強制している匂いがする。強制させられたとたんに自発的思考ではなくなるのだから、考えさせるという言葉は自己矛盾を孕んでいると言わざるを得ない。自分の意思で考えなければ考えることにならないことが教師たちにはわかっていないだろうか。
たとえば科学の実験の場合でも、必要な機材も手順もすべて学校が用意してあらかじめ想定した体験をさせる場でしかない。本来、実験は試行錯誤を繰り返して、時には大怪我をして、自分の体が理解したとき、はじめて学習したと言えるのではと私は思う。
そんな実験でも子どもが深く知りたいと考え込んでいると「何をぼんやりしている。さっさと片付けなさい」と叱られてしまう。
すべての勉強で同じことが言える。子どもたちを机の前に座らせて、無理やり開けた口に誰かが必要と決めた栄養素をねじ込んでいる。それが本人にとって必要であるかどうかの意思は全く無視されている。
このことは学校のどこを直せば治るという問題ではなく、日本の教育制度そのものが持つ矛盾であり、子どもはここから逃げるしか方法がない。
いまの教育制度の中では、この事態が自分にとって必要なことなのだと思い込むようにしないと子ども達は生きていけない。それは虐待されている子どもが親は自分のことを思ってやっていると思い込んでしまうことに似ている。
しかし、そのことは子どもたちにとって自己欺瞞でしかありえない。虐待された子供が精神的に必要以上の苦痛を抱え込んでしまうアダルトチルドレンの症状はそのまま学校にも当てはまる。
学校教育を通じて子どもたちは問題に対する正解をひたすら覚えるという作業を12年間も続ける。大学も含めると16年間そうやって覚えこんだことで「必ずどこかに正解があり、それが分からない私は劣っている」という意識となる。そうでない人は社会を破壊に導く官僚や経営者になる。
社会には正解はない。教室の中の人間関係にも正解はない。
学校は子どもたちに必ず正解があると教えるがそれは学校の教科の中にしかないということは決して教えない。学校へ行くことで真面目だがひどく折れやすい日本人の性格を作っていると思っている。
昔はそれほどひどくはなかった、ここ20~30年の間にひどく変わってしまったと私は思う。今20歳前後の若者の親は50代だろう。この50代という世代は高度成長期に青少年時代を過ごした人たちだ。多くのの日本企業が高度成長して大企業となって、ジャパンアズナンバーワンと言われた時期だ。この親たちは大企業こそが生活を保障してくれると信じ込んだのは当然だが、それを子どもたちにも押し付けているところに問題がある。
ここ20年ほどで国際化と情報化が社会を激変させ、50代の親たちの考えはもはや通用しない。にもかかわらずというか、だからと言うか、子どもが優良企業に入社することがすなわち人生の成功につながると思い込んでいる。
学校と親の両輪が子どもを単一目標に追い込んでいて、子どももそれをまともに信じている。でもいくら信じても、それが報われることはない。もはやどの企業もただ働く人を必要としていない。必要なのは肉体労働か、高度な知的独創力である。事務職は最早なく営業職、管理職など中間的職業はいずれなくなる。学校はその中間の人材を相も変わらず大量に送り出し、そこにギャップが生まれている。(参考「機械との競争」)
企業がほしいのは問題があってその正解を出すことではなく、問題を作る力である。チェスも将棋もコンピューターに勝てない時代になり、答えを出すのはコンピューターのほうが速くて正確になって来ている。コンピュータにできないのは問題を作ることで、この流れはこれからも変わることなく、さらに強く激しくなって行き、これまで想像もできなかった過激な社会が始まろうとしている。
ほんのわずかの問題能力を持つ者だけが世界の富を独り占めしていく。
コンピュータは決して問題を作れない。問題を作る能力には夢が必要になる。夢は人しか持てない。夢を持たない人が自分の未来を見ることはできない、だから自分の夢を空想することから始めたほうがいい。学校教育によって夢が与えられることはない。
若者たちに言いたい。早く目を覚ますべきだ。
自分が見るべき夢は自分がひねり出すしかないのだ。
なぜか?、それを考えてみたい。
私はその原因を教育に求めてみた。現在、若者たちには常に共通一次に代表されるマークシート型解答が求められている。つまり、家庭も学校も子どもたちに子どもたちにマークシート型教育を施している。言い換えると、正解が一つはあるという問題しか教えない。というより一人一人にきめ細かく教えていればたちまちほかの学校のマークシート型教育に負けてしまう。だからどうしてもそうならざるを得ない。言い換えると単一目標型教育と言えるかもしれない。
文科省や学校や教師は「考えさせる授業」と謳うが、実際にはそんな余裕はない。それに「考えさせる教育」という言葉も自己矛盾をはらんでいる。考えるという行動は自発的(自由)な思考からしか生まれないと私は思う。考えさせるという言葉には考えることを強制している匂いがする。強制させられたとたんに自発的思考ではなくなるのだから、考えさせるという言葉は自己矛盾を孕んでいると言わざるを得ない。自分の意思で考えなければ考えることにならないことが教師たちにはわかっていないだろうか。
たとえば科学の実験の場合でも、必要な機材も手順もすべて学校が用意してあらかじめ想定した体験をさせる場でしかない。本来、実験は試行錯誤を繰り返して、時には大怪我をして、自分の体が理解したとき、はじめて学習したと言えるのではと私は思う。
そんな実験でも子どもが深く知りたいと考え込んでいると「何をぼんやりしている。さっさと片付けなさい」と叱られてしまう。
すべての勉強で同じことが言える。子どもたちを机の前に座らせて、無理やり開けた口に誰かが必要と決めた栄養素をねじ込んでいる。それが本人にとって必要であるかどうかの意思は全く無視されている。
このことは学校のどこを直せば治るという問題ではなく、日本の教育制度そのものが持つ矛盾であり、子どもはここから逃げるしか方法がない。
いまの教育制度の中では、この事態が自分にとって必要なことなのだと思い込むようにしないと子ども達は生きていけない。それは虐待されている子どもが親は自分のことを思ってやっていると思い込んでしまうことに似ている。
しかし、そのことは子どもたちにとって自己欺瞞でしかありえない。虐待された子供が精神的に必要以上の苦痛を抱え込んでしまうアダルトチルドレンの症状はそのまま学校にも当てはまる。
学校教育を通じて子どもたちは問題に対する正解をひたすら覚えるという作業を12年間も続ける。大学も含めると16年間そうやって覚えこんだことで「必ずどこかに正解があり、それが分からない私は劣っている」という意識となる。そうでない人は社会を破壊に導く官僚や経営者になる。
社会には正解はない。教室の中の人間関係にも正解はない。
学校は子どもたちに必ず正解があると教えるがそれは学校の教科の中にしかないということは決して教えない。学校へ行くことで真面目だがひどく折れやすい日本人の性格を作っていると思っている。
昔はそれほどひどくはなかった、ここ20~30年の間にひどく変わってしまったと私は思う。今20歳前後の若者の親は50代だろう。この50代という世代は高度成長期に青少年時代を過ごした人たちだ。多くのの日本企業が高度成長して大企業となって、ジャパンアズナンバーワンと言われた時期だ。この親たちは大企業こそが生活を保障してくれると信じ込んだのは当然だが、それを子どもたちにも押し付けているところに問題がある。
ここ20年ほどで国際化と情報化が社会を激変させ、50代の親たちの考えはもはや通用しない。にもかかわらずというか、だからと言うか、子どもが優良企業に入社することがすなわち人生の成功につながると思い込んでいる。
学校と親の両輪が子どもを単一目標に追い込んでいて、子どももそれをまともに信じている。でもいくら信じても、それが報われることはない。もはやどの企業もただ働く人を必要としていない。必要なのは肉体労働か、高度な知的独創力である。事務職は最早なく営業職、管理職など中間的職業はいずれなくなる。学校はその中間の人材を相も変わらず大量に送り出し、そこにギャップが生まれている。(参考「機械との競争」)
企業がほしいのは問題があってその正解を出すことではなく、問題を作る力である。チェスも将棋もコンピューターに勝てない時代になり、答えを出すのはコンピューターのほうが速くて正確になって来ている。コンピュータにできないのは問題を作ることで、この流れはこれからも変わることなく、さらに強く激しくなって行き、これまで想像もできなかった過激な社会が始まろうとしている。
ほんのわずかの問題能力を持つ者だけが世界の富を独り占めしていく。
コンピュータは決して問題を作れない。問題を作る能力には夢が必要になる。夢は人しか持てない。夢を持たない人が自分の未来を見ることはできない、だから自分の夢を空想することから始めたほうがいい。学校教育によって夢が与えられることはない。
若者たちに言いたい。早く目を覚ますべきだ。
自分が見るべき夢は自分がひねり出すしかないのだ。
7 件のコメント:
自分が大切に育てている子供達が、自ら命を断ってしまうなんて、ちょっと考えただけで胸が苦しくなります。日本では自殺、そして他の国ではドラッグに依存する若者が多いようです。
子供が学校で過ごす時間って、長いですものね。そこでの自分の存在価値が、(たとえ長い人生のほんのわずかな時間であっても)自分のすべてのように見えてしまうのでしょうね。そのマインドコントロール的なものを崩すことも、現代の親の仕事の一つなのかもしれませんね。アンスクーリングしている我が家でも、私はコテコテの日本教育にどっぷり浸かっていましたので、常に気をつけていないと古い価値観がひょっこり顔を出してしまうコトもあります。そういう時には「子供はこのコトから本当に何かを学べる?」と自問自答してます。
chibimikanさん
そうですね。私もつい、息子にこうすべきだと言い切ってしまって、しまったと後悔します。
。
学校はどうしてあんなに自信たっぷりに子どもに接することができるのか理解できません。もう少し人間や子どもに対して謙虚になってほしいですね。-まあそれだけ余裕がないんでしょうが。
断定されてそれを信じて社会に出て混乱し、本来持っている生命の気迫を失うんだと私は思っているのです。
自殺も悲しい。この辺で銃を撃ち合ってる子たちも、ドラッグ売買してる子たちも悲しい。
日本人のマインドコントロール崩し、Chibiちゃんの言うとおりだね。
教育熱心な友達たちに、もうちっとTake it easyに生きてこうよって言いたいけど、将来のことを考えたらできないんだって。親も辛いらしい。
難しいね。
すみこさん
日本では銃も薬も手に入れにくいから自死に至るのか。悲しい現実だ。
私は、将来のことを考えると、息子を学校には行かせられないと考えるけど。
確かに難しい。
子どもはキラキラ輝いていて欲しいですよね。ニートとか不登校とか、子供たちや若者が苦しい思いをしているのは、社会が悪い。大人が悪いんですよね。
長いものに巻かれて生きた方が楽ちんだから、大人は行動を起こさない。子どもはその犠牲者。悲しいです。
はじめまして。教育に興味がありたまたま見かけしたらついつい面白く、記事を読んでしまいました。いろいろと考えさせられる文章でした。最近はあまり更新なされていないようですが、またこのような面白い記事を読みたいですお待ちしてます。
浅田さん初めまして。
最近、息子を留学のため、外国に送りだして家に子どもがいない状態になり、教育に対する熱が少し醒めてしまいました。
このブログやツイッターで言いたいことは言いつくしているように思え、なかなかテーマが思いつきません。
浅田さんから何かご質問があればまた火が付くかもしれませんね。
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