2013年1月28日月曜日

続・叱ってはいけない

叱ってはいけないの続編です。

叱ると言うことについて多くの人たちが理解していることと私の理解は違います。

叱られた子どもは親に論理的に反論はできません。知性も経験も反論するには全く不足しているのです。でも反論できないから間違えていると言い切れるでしょうか。

例えばあなたが外国に一人で行き、その国の言葉がまともに話せないとき、誰かに叱られても理解できないし、どう表現していいかわからずどうしても口ごもってしまいます、そこをさらに畳み掛けられたら黙るしかありません。
あなたの子どもはそれと同じ状態なのです。叱らずに聞いてあげて欲しいのです。粘り強く、落ち着いて、親身になって。そうすればその子もほかの人たちに同じようにするでしょう。子どもを叱ればその子はほかの子のことも叱るでしょう。

子どもが大人になって叱られたとき、理不尽にも怒鳴られたときどうなるでしょうと書きましたが、私はだからこそ叱ってはいけないと思うのです。

何人かの人を雇用していたことがあります。そのとき、私が怒ったとき、おびえてしまって黙り込んでしまう人と、怒鳴り返す人と、上手に対応できる人がいました。どうしてかと思ったので、親との関係をそれぞれ聞きました。そのときわかったのはおびえてしまう人と怒鳴り返す人は親からよく叱りつけられていたことです。
うまく対応し私を納得させた人は親からほとんど叱られたことはなかったと言いました。だから叱る人を見ても何とも思わず、なぜ叱るのかと不思議に思うそうです。
それで私は自分の子どもにも叱るのをやめたのです。

また叱られても、へこんでも、それを忘れるくらいに育って欲しいとも書きました。
私は子どもは叱られたことが理解できないから忘れると思います。でも意味もわからずに叱られた嫌な思いだけは心の奥底に沈殿していくと思うのです。それが大人になって誰かに叱られたとき泥に浮かぶ泡のように浮かび上がってくることがあるのです。そのとき感情を制御できずに黙り込んだり、夢中になって反論したり、暴力を振るったりするのだと思うのですよ。

一つとても大事なことがあります。
叱られ続けた子どもは『嘘をつくようになります』。なぜ叱られているか子どもは本当には理解できていません。叱ると言うことは親(大人)の論理なのです。大人になれば理解できることも子どもには理解できないことがいっぱいあります。子どもはそんなとき頭の上を通り過ぎるのを待つしかないのです。次に同じ状況になると親の見ていないところでやります。それで後で親からとがめられると叱られたくないために嘘をつくことになります。
嘘つきは泥棒の始まりと言いますね。私も親にひどく叱られたので、嘘をつくようになりました。そうなると、親と口をきくことができなくなり、何を聞かれても「べつに」と無視するようになりました。さらに恥ずかしい話ですが親の財布から金を抜き取ることを覚えました。そのままでは犯罪者になっていたかもしれません。あるとき嘘をつき続けることができるほど頭が良くない自分に気づいて嘘をつくことをやめました。なぜか、それきり人の金には興味が無くなりました。

子どもを叱ると、どうしても連鎖をします。叱られた子どもの態度でまた叱ってしまうのです。それが又と繰り返して、エスカレートすると最後に虐待が待っています。
本当に些細な最初で自分を押しとどめないと、どこで止めるかとても難しいのです。

新聞に『叱るのをやめられない母』の投稿があり、興味深いので抜き書きします。
3歳の娘のやることが気に入らなくて、いちいち叱っていました。あるとき食卓の塩を皿に山盛りにしてスプーンですくって食べようとしている娘を見て「何をしているの、止めなさい!」と怒鳴り取り上げようとしました。ところが娘は泣きわめいて止めようとしません。困っていたら祖母が来て「食べさせて上げなさい」と言い、孫に「少しだけ食べて、おいしかったらもっと食べていいよ」と言いました。娘は喜んで口に入れ、すぐペッペッと吐き出して泣きそうになりました。周りは大笑いになりましたが、娘は二度と塩を口に入れようとしなくなりました。
「よほど危険でなければやらせてあげなさい。危険であれば目の届かないところに置きなさい。子どもを叱ると言うことは自分の配慮が足りないのだよ」と祖母は静かに言いました。


霜田静志の『叱らぬ教育の実践』と言う本に面白い話が書かれています。
どうにも手に負えない悪さをするチムという15歳の子がいて、ものは壊す、悪態はつく、人のものは盗む、誰が叱っても全くなおらなくて、ついに盗みで捕まり収容所の所長に引き渡されたそうです。所長はチムにこういったそうです。「明日からうちに来てください」と1ポンドを渡し、「明日、これで切符を買って、1時にエバーショット駅に着く汽車に乗って一人で来てください。迎えに行きますから」と言ったそうです。みんなが驚いてその金を持ってチムは逃げるに違いないと思ったそうです。でもチムはちゃんとエバーショット駅に来て所長に釣りを返して一緒に収容所に入ったそうです。
他の人がその所長に「あなただからできる。私が金を渡して『君を信用するから、明日くるように』と言ってもこないだろう」と言うと、所長は「私は信用するなんて言っていません」と言いました。つまり信用すると言う言葉自体がその子を信用していないことを表しているのです。チムは金が欲しかったのではなかったのです。欲しかったのは自分を信頼してくれる人で、その人を裏切りたくなかったのです。チムはやがてそこを出て立派な社会人として人生を送りました。
また院長は自分の財布から金を盗む子どもがいたので、その子に「そんなに金が欲しかったんだ。後何ポンドあればいいのか」と聞き、金を渡そうとしたそうです。その子はいらないと答えて、二度と盗もうとしなくなったそうです。

アリスミラーはヒットラーのことを調べて、彼が父親からひどく叱られていたのでとても権威主義的になったと言うことと、その当時のドイツ人のほとんどは親から厳しくしつけられていたので、ヒットラーを見て無条件に父親と重ねて見てしまい、思考停止してしまったと分析しています。彼女は子どもを叱るのが当然の文化がヨーローッパに二度の戦禍を招いてしまったのだと主張しています。

私は息子を叱ったことはありません。2歳の頃タイムアウトを2回やりましたが、それ以降8歳になるまで一度もやったことはありません。それでも、何の問題もなく成長しています。人からは息子の目が輝いていると褒めていただくことが多いのも叱られていないからと自己満足に浸っています。

私は一人でも多くの子どもを「教育や、叱る」と言う強制から解放したいのです。それが私に残された最後の仕事だと思っています。

2013年1月24日木曜日

叱ってはいけない

子どもは大きく力強くそして優しく育って欲しい。

すべての親の望みであろう。

でも、叱れば叱るほど子どもは小さくなる。

親が大きくなれと願って叱ると小さくなる。

本当に愛している人に誰も叱ったりしない。

叱ると言うことは、その人を支配していることになる

自分を支配している人を誰が信頼するのだろう。

本当にその人のことを愛しているなら、

その人の言うことをよく聞いて理解し

相手にわかるまで丁寧に考えを伝えようとするだろう。


だから、私は子どもを叱らない。

ただ柔らかい壁でありたいと考えている。

でも学校はそれができないのではないかと、

私は怖れている。

2013年1月10日木曜日

勉強をするということ


子どもは学校へ行くもの。日中ふらふらしている子どもはありえない。学校へ行かずして大人になることもありえない。とみなが考えている。本当だろうか。

私の8歳の息子はいわゆる小学校には行っていない。正確に言えば授業というものを受けたことがない。入学式のときいくかと聞いたが「行きたくない」と答えたのでそのままホームスクールをはじめた。その後ゆえあってサドベリーに通っているが、毎日遊んでいるだけで勉強らしい勉強はしたことがない。(毎日見ているわけではないので本当のところは分からない)

その息子のことを見ながら感じたことを書いてみたいと思う。

体罰の死


バスケット部の顧問教師から体罰を受けて高校生が自殺してしまった。子どもの親の気持ちはいかばかりだろう。私が親だったとしたなら気が狂いそうになる。なぜこんなことが起きるのかを考えてみた。

生徒に聞くと指導熱心ないい先生と評価が高く、全国大会に何度も出て有名だそうでもある。そのため顧問の教師は交代することなく長く務めていたそうで、学校の期待が伺える。その強いプレッシャーが指導教官に働き、厳しい指導が行われ、部内が閉鎖空間で集団ヒステリーの状態になる。その結果体罰が常態化しある日決壊する。

その集団内では目的のためにはルールはある程度無視してもやむをえないという暗黙の了解が横行し、この感覚は大日本帝国を暴走させた日本軍を誰にも止められなかった結果と連なっている。日本軍の新人いじめは凄まじく、兵営内で自殺者が頻発したがすべて隠されてしまったそうだ。今回も当初学校も教育委員会も隠蔽しようと画策したが隠し切れなくなって仕方なく謝った観がある。
この学校では以前にも体罰の問題を起こしたことがあり、学校や教育委員会、教育関係者全体そして保護者の間にも教育基本法の11条で禁止されているにもかかわらず成果を挙げるためには、または子どもの教育のためには体罰はやむをえないと考えている節がある。彼らにとって順法意識や子どもの人権については毛ほども考えていないのであろう。そもそも体罰にはそれを行使する側の支配欲の満足があるだけで何の効果もあがらないという研究結果も出ている(参考:たまたま)学校や教師はこのような勉強もしていないのだろうか。

このような教育界の暴走体質はどこから来るのだろうか。

日本ではある程度以上の閉鎖空間になるとその中の論理が外部社会の規則を無視して暴走する傾向がある。家庭内暴力でも社会との交流の少ない家庭に起きがちで、他人が常時出入りしている家庭では起きにくい。また日本の企業では不正を内部告発した人は社内から総すかん食らって会社にいられなくことが多い。
振り返ってみれば日本陸軍や赤軍派、オウム真理教などどれもが外部から隔絶した環境で起きている。原子力村の問題もまったく同根だろう。さらに学校に戻って、いじめの問題、指導死、登校拒否などの問題も隔絶された空間ゆえの問題も多いと思う。

そう考えるとこの問題は日本の風土から来る根源にかかわる問題のような気もする。今後学校という空間が正常に機能するためには校内に自由に出入りすることができるような制度改革をしない限り同じような問題が繰り返し繰り返し起きることだろう。でもそうなると不審者が出入りすることもありうるので痛し痒しなのかもしれない。

子を持つ親として今回の事件で思うことは、子どもの頬が腫れていたり、唇が切れているときその理由も聞かずに(聞いたとしても納得もしないで)学校に行かせることがいかがなものかということである。今の学校の仕組みから言ってそこまで学校を信じていいのだろうか。

今の学校(少なくとも日本の学校)は大変危険に満ちていると思うのだ。私にはとても怖くて行かせられない。