勉強科目以上の切実な必要性を自分の内部に見つける
片岡義男(作家)
英語という外国語は、ほとんどの日本人にとって、学校での勉強に始まり、学校での勉強に終わる。中学からその勉強を始めて高校で終わるとしても、実に6年の長きにわたって、英語を勉強科目として誰もが背負い込む。中学生という難しい年齢の人たちに、学校の勉強科目はたくさんあり、どの科目でも試験やテストがあり、その都度採点され、最終的には通信簿での評価として固定されてしまう。英語がいったん苦手科目になったら、修正はきかない。英語が苦手のまま、学校の勉強を終える。終わったらそれっきりだから、せいせいすることは確かだが、英語は苦手だったという事実は今もそしてこれからも苦手であるだろう、という未来として続いていく。
学校の勉強科目というものは実は困ったものなのだ。学校で勉強するのは当たり前でしょう、何が困るのですか、と反論されたなら、それこそがおお困りなのだか、僕にはそれ以上どうすることもできない。勉強科目にしなければ、英語を苦手とする人地の数は、激減するような気がする。勉強科目しないとは、試験やテストをしない、したがって採点もしないから成績として固定されることもない、ということだ。難しい単語のつづりを正しく素早く口頭で言う競争などのように、採点することが当然の領域では、愉快な催し物として採点し、順位をつけ、みんなで楽しめばいい。それ以外の領域では、試験なしで成績評価もなし、ということにすると、気が楽になるだけでも学習の効果は飛躍的に上がるのではないか。
社会との接点各学校教育
日本人にとって英語を苦手なものでなくするためには、学校での教育の仕方の全域を、抜本的に変えなければいけないのだろう、と僕は思う。学校とそこでの様々な教育は、あるのが当然であり、それを受けることを通して人は成長していく、と思われている。その通りだろうけれど、学校とそこでの教育というものが、いかに不自然なものであるかには、もう気づいたほうがいい。学校での教育で全員の粒をそろえたうえでの労働力として企業その他に注入する、というこれまでの学校教育は、社会との接点を欠いている点において、不自然さを極めきっている。勉強科目とその試験そして成績は、全員の粒をそろえるために機能してきた。
社会との接点を欠いている、とたったいま、僕は書いた。英語の勉強も社会との接点を大きく欠いている。社会との接点とは日常の現実のさまざまな局面の中での、切実にして痛切な必要のことだ。例えば体に何らかの症状があるので病院へ行ったとして、外来の受付にいる担当者は日本語がおぼつかず、中国語あるいは韓国語でしゃべってもらえないか、さもなければ英語でもいい、といわれて英語をしゃべるような場面は、切実にして、痛切な必要というものの、極めて分かりやすい一例だろう。
痛切にして切実な必要が、常に自分の外側だけからやってくるものであるなら、英語は苦手科目にとどまるだろう。その正反対な必要があるうる、と僕は確信している。英語に関する痛切にして切実な必要が、自分の内部から湧き上がってくるなら、英語がいつまでも苦手科目にとどまるわけがない。問題は教育にも社会にもない。自分の内部にのみ、それはある。
エコノミスト1/14(英語と経済)
ここまで記事の引用
途中までは全く同意見ですが、最後の結論は私の感想とちょっと違います。学校教育の問題は自分の内部に深い傷を残してしまいます。それが英語(に限らず)への挑戦を自ら引きずりおろしてしまうのだと思うのです。自分の内部といえそれは生まれてからの環境の反映でしかなく、幼児期少年期にほとんど人格は完成されてしまうのです。努力をすることも、努力をすることを美徳とする環境の成果だと私は考えています。学校は努力を称賛しながら、テストと評価によってそれを台無しにしているのです。学校教育を変えない限り日本人は英語が苦手なままだと思いますね。この文章は片岡さんの信念と社会の常識との折り合いをつけたものでしょう。
私は1年ほど前から毎晩10分ぐらい布団に入って息子に英語を教えました。覚えたことを確認し、忘れていることはくりかえし戻りました。(私の能力が追い付かなくなったため)今は教えていませんが、イギリスに行って英語を勉強したいと言い、4月から留学する予定です。