2010年9月27日月曜日

学校の意味 保育所

学校の意味の3番として保育所という考え方がある。

これが親にとっての学校の一番の目的だと言うことが最近やっとわかった。建前としては学校は教育であり、学歴が必要というが、とことんまで突き詰めると、保育所としての学校の機能がある。

学齢前の家庭以外の施設として、保育園と幼稚園があるが、保育園はいっぱいでも幼稚園にはまだ空きがあることが多い。実際子どもを通園させてわかったことは幼稚園は3時に終わってしまうので、仕事をしていた妻は大変苦労していた。妻の母が来てくれたので何とかしのぐことができたが、そうでなければ通わせきれなかっただろう。

いまや、多くの家庭でも妻が仕事を持つことが多くなった。化粧品や生命保険のセールスレディがどこに行っても留守ばかりで仕事にならなくなったとぼやいていたことでもよくわかる。それが小学校に通うようになり、当初無料の保育園として学校が機能している。だから学童という延長保育も必要になるわけだ。

ある不登校対策の組織に相談に来たお母さんが、「子どもに、出世してほしいとか大学に行ってほしいなどの希望はありません、子どもが黙って楽しく学校に毎日行って欲しい というだけが望みです」と語っていたが、かなり多くの母親の本音だろうと思う。ほとんどの母親は子どもが大人しく、学校に通い、卒業し、平和な家庭を持って穏やかに暮らしてほしいと言うのが本心、望みだと思う。

ではなぜ教育ママという現象が起きるのだろうか。
小学校高学年になると、勉強する子としない子の二極分化が始まる。大まかにいえば比較的高齢、高学歴の母親とそれ以外の母親で教育に対する姿勢に違いがあり、比較的勉強に前向きの子どもと、そうでない子どもに分かれる。そうなると勉強にさほど興味のない子どもが公立中学に入り、それ以外は私立中に進むことになる。結果的に公立中学に情緒不安定な子どもたちとそれを抑え込むタイプの教師が集まることになる。

 子供が健康に育てばいいと思っていた親たちも次第に不安になってくる。それで教師に相談し、少し頑張れば私立中学に入学可能と聞かされる。そうなるとどこでもいいから私立に入れようと考え、さらに話を聞くにつれ、もっと頑張れば有名私立にも入れるかもしれないと思う。そして、めらめらと競争心に火がつき、子どもを塾に行かせたり、家庭教師を付けることも躊躇しなくなってくる。金をかけた分、子どもに平凡な家庭を望んでいた親も気がつくと教育ママといわれるようになる。

年齢的にも働く母親もガラスの天井にぶつかり、ただ働いていることが楽しかったのが、後から入ってくる来る男たちに追い越されていく現実に直面するようになり、仕事に対する情熱も薄れてくる。そしてその熱意は子どもに向かうことになる。

学校というものが実に巧妙に社会の仕組みとして組み込まれていて、社会に学校が組み込まれている。

問題は子どもたちにとって本当に幸せといえるのだろうかということ。

保育園には達成目標はない。しかし、幼稚園や早期教育では達成目標が与えられる。そして、小学校も達成目標を与えられ、テストで到達度を比較される。さらに、中学、高校とふるいにかけていく。それが問題だと思う。

幼い子どもにとって達成すべき目標は与えられるべきではないと考える。なぜなら、10歳未満では将来の展望を持てるわけはないと考えるからである。将来の展望のない達成目標は押し付けでしかない。押し付けられた達成目標は自立心を奪う。目標は人から与えられるものだと信じるようになるからである。私は幼少時に育てるべきものは自立心だと信じている。自立心を育てるには、自ら考え、失敗するしかないと思う。だから、遊びから得るものは大きい。遊びを通じて何度も失敗して骨身にしみることでしか物事を覚えることはない。

学校が本当に保育施設で子どもを預かっているだけであれば、許されるだろうが、そこに達成目標があり、それを達成させようとする教師がいる限り、自立心は育たない。


言葉
これまでの教育は独立した考え方をすることを著しく困難にしている。適合は凡庸に行きつく。集団とは異なること、環境に逆らうことは容易ではなく、我々が成功を崇拝している限り、それは往々にして危険である。」J・クリシュナムルティ

2010年9月21日火曜日

学校の意味 学歴

学歴について考察してみたい。

学校へ行かないと学歴がなくなる、もしくは中卒になってしまう。というものである。確かに息子が成人した時就職できるかという心配はないでもない。でも、日本の学校や子どもたちの閉塞状況を変えるためにも学校へ行かない道があると言うことを証明したいと考えている。

学歴の価値
私は日本の学歴には、もはや価値はないと考えている。
今、大学卒の学歴があっても失業している人はいっぱいいる。就職浪人も3割を超えているそうだ。いいかえると学歴があれば終生食うに困らなかった時代は終わっている。終わっていないと考えているのはお母さんたちと、先生たちだけだろう。子どもたちも薄々感じているし、お父さんたちは骨身にしみているはずだ。

20年前に世界中が資本主義経済に組み込まれた結果、同じ仕事なら日本から賃金の安いところに行ってしまい、単純作業が消えた。次は高度な知的作業も消えるだろう。残るのは役に立つ人材だけだろう。

役に立つと言うのはどう言うことだろうか。
たとえば自動車会社を例にとると、画期的なエンジンを考えることができる人や、黙っていても売れる仕組みを考える人が役に立つということで、そういった人に辞められて競争会社に行かれると大損害になるので必死に止めるだろう。そうでない人はいつでもリストラ候補生だ。

そういう役に立つ人はどうして育つのだろう
何とか就職できたとして、年齢を経るに従い、言われた仕事をこなすことから、自ら仕事を考え、他人に指示する立場になる。そのとき、学校で言われたとおりに授業を受けて、先生の言うとおりに答えを書いて正解とする考え方に浸った人は自ら考えることが難しい。さらに他人に指示をして仕事をさせるのはさらに難しい。学校を出てから、自立をし多くの人を差配する立場に自らを置き換えるための努力が必要になる。その作業は教わってできることではない。自ら考えることを習慣としてきた人だけにできる作業である。そのためには子どもが人間として尊重されていると言う自覚を持てるように育てられる必要がある。

学校へ行ってもそういった才能をつぶされなかった人もいることはいる。しかし、日本の学校がそういった人材を育てようとしているだろうか。「自立する人を育てる」という言葉だけでは駄目である。先生の言うことに逆らう生徒を愛でる気があるといえるだろうか。私はほとんどないと思う。

本当の学歴とは
今の日本の経済は、終戦の価値の大転換を経て、学校教育の混乱時に自ら考えて成長せざるを得なかった人たちによって成し遂げられた。本田宗一郎しかり、松下幸之助しかりだ。彼らはどんな時でも、容易には我慢しなかった。仮に学校に行き、我慢を覚えていたら、多分大企業を作ることはなかったと思う。私達は彼らの遺産の上で食べている。

本当に学歴を重視するなら、世界のトップ10位に入る大学院の卒業証書が必要である。 日本の大学はあの東大でも10位にすら入れない。しかも誰も大学院へは行こうともしない。日本以外では学歴といえば大学院を卒業することが目標である。

それでも日本の学歴がほしい
どうしても日本の大学に行きたければ、高卒認定を受けて大学受験したらいい。ただ漫然と高校まで通った子どもより、ホームスクールをした子どもたちは勉強の意味をよくわきまえているので、ほんの短時間猛勉強しただけで簡単に合格できるだろう。 

無学歴の生き方
全く学歴がない人は就職すらできないと思いこんでいる人に、横浜の林市長が立派な反証になる。彼女は求人もしていない外車の販売会社に行って雇ってと言い、女性には無理と言うのを頼み込んで入社して、立派な成績を上げ、社長まで上り詰め、今は市長をしている。
それもかなわなければ事業を興してもいいだろう。実業の世界では学歴は無用である。

学歴はなくてもかまわない、必要なのは生きる意志だ。

言葉
子どもに自由を与える目的はふたつ。ひとつは、子どもが自分の興味を十分に追及していけるようにするため。そうすれば子どもの人生も心も豊かになっていく---それも今その場から。そしてもうひとつ。子どもが心の声に耳を傾けていけるようにする。その声に従っていけば、その後の人生も、道を誤ることなく歩んでいけるだろう。」グレース・ウェリン&エイミー・シルバー

2010年9月17日金曜日

学校の意味 教育

学校はなぜあるのだろう。考えるに3つの理由があると思う。

1.教育を授ける
2.学歴をつける。
3.子どもを大人の社会から隔離し、経済活動の障害にならないようにする。

今回は教育について考えてみた。

学校は子供を集めて手際よく子どもの成長に必要な知識や環境を提供する。

社会に出てみて、教育されたことの9割は役に立っていないし、この急激な変化の時代では学校で教えていたことがすでに定説が覆されていることすらある。学校出てからもう一度勉強し直さないと役に立たない。はじめから一人で勉強しても大して変わらない、というよりその方が効率がいい。

クラスで30人もの子供に同じことを教えることで、学校ではみんなに等しく知識がつくと思っているのだろうか。どう考えても、すぐ理解できる子とできない子がいて、どちらにとってもつまらないという意味で不幸なことである。

何で子どもを教室に無理やり閉じ込めて、好き嫌いにかかわらず、一定の時間勉強しないといけないのか全く分からない。しかも面白かろうとつまらなかろうと、今やっていた教科をしまって別の科目を出して切り替えないといけない。それでいったい、主体性というものが育つのだろうか。

テストを繰り返してクラスの中や学校の中での位置を指摘して本人に劣等感や優越感を抱かせることに意味があるとも思えない。勉強は競争ではない、一人ひとりの好奇心や探究心の発露だと思う。誰がどうあろうと自分が知りたいことを学ぶことが勉学であり、人から迫られた勉強はほとんど身につくことはない。

学校が宿題を出すことで子どもの家庭の生活にまで学校が関与することも許せない。自分の息子をどう育てるかは親が決める。その大切な家庭の時間を宿題ごときに取られてたまるか。

子どもは学校を選ぶこと、クラスを選ぶこと、先生を選ぶこと、教科を選ぶこと、登校日、時間を選ぶことのどれ一つも選択できない。学校へ行かないことすら親が断固として主張しなければ許されない。(親が主張しても法律違反だと脅されることもある) このような場所はほかには刑務所と軍隊だけだ。

子どもを学校へやるから勉強嫌いになるのだ。

それで今時の子供は指示待ちだとか、覇気がないとか、よく言うよとしか言えない。

このままでは、将来の日本人は何一つ自分で決めることができない人ばかりになるだろう。そういえば今年の日本航空の入社式の写真を見てたまげた。全員同じ色形のスーツを着ている。最初制服かと思ったが、会社からは何一つ規制していないと聞いて情けなくなった。1980年代の入社式の写真もあったが、みんな自由なファッションで式に臨んでいる。日本人はここまで落ちぶれててしまったのだ。これも学校教育の成果だろうとしか思えない。日本人は主体性がない、意見を持たないと世界から言われ続けていて、何一つ変わらないばかりか、さらに悪化している。

テレビを見て、学校へ行けばみんなそろってばかになる。
 悲しいけど現実だろう。

ちなみに、私の息子は学校へ行く前だが、500字程度の漢字は読めるし、算数も分数の計算がお気に入りだ。ことに好きなのが歴史で、縄文時代から太平洋戦争まで大まかに聞き、さらに細かな時代の説明をしろとせがんでいる。 息子はごく普通のどこにでもいる子どもだ。それでも、放っておけばどんどん勉強をしている。学校へ行って何を勉強すればいいのだ。
私は息子には何一つ教えようとはしていない。たんに聞かれたことで知っていることは答えるし、知らないと一緒に調べているだけである。

これまで子どもに対して特別なことは何もしていないが、強いて言えば、家にテレビがないことと、息子を怒鳴ったり叱ったりしなかっただけだ。

まとめとして、学校教育というものは強制教育であり、子どもにとって何もメリットはないと思う。それでも必要とされている。そのことは次回。



言葉
教科書が必要なのはむしろ教師です。指定された教科書を、指導の手引を参照しながら、そのまま実施していきます。手引には結構こと細かく、「この個所の意味を考えさせます」とか「○○について話し合わせるのもよいでしょう」みたいなことを書いてありませう。それにのっとって教師は「これはどんな意味かな…」なんて質問したりします。お芝居みたいです。」五味太郎

2010年9月9日木曜日

犬って、なあに


息子から幼いころ「いぬってなに?」と聞かれた。
「犬はね、四本足の動物でワンと吠えるんだよ」と答えた。

分かったかどうか、分からなかったが、ある日大きな犬を見て
「ほらこれが犬だよ」と言ったその時、その犬が大きな声で
ワンと吠えた。
息子はその時泣くこともできずに、凍りついてしまった。

息子は、犬がどういうものかをそのとき知ったに違いない。

学校では犬=「ワンと吠える動物」と教えているだろう。
それ自体は決して間違えではない。
でもそれで、子どもたちは本当に犬を理解できるのだろうか。

犬に吠えられたり、抱っこしたりしたときに感じる
「おおっ」という感激があって初めて知ったことになるのではないか。
それが本質を学ぶということじゃないだろうか。


意味は言葉を言葉で説明しているに過ぎず、
大事なことは言葉の前の「無意味」に込められていると思うのだ。

人間の文化に文字は欠かせないし、
学校が実験や体験をしていることも知っている。
それでも試験という現実を前にして
学校が「文字」で何かを伝えることで、子どもの若い時期を浪費し
干からびた知識を伝えていることで、教えているつもりになっている
教育界の思い上がりがうすら見えてくる。

それは学校そのものの存在意義にかかわる問題で、
決して単純に解消しえない深い闇の中にある。


言葉
ホームスクーリングは子どもに本当の力をつけていくためのものです。そして学ぶという行為を、一生涯を通した習慣として身につけていく目的も含まれています。テストが終わればすべて忘れてしまうのではなく、学んだことがすべて自分の血となり肉となるのです。」ホーリンズ川田裕子

2010年9月5日日曜日

日本の歴史


ホームスクールというと親がすべて教えないといけないという印象をもたれる。そんなことはない。基本的に自分で調べて考えればいい。と思う。

しかし、まだ幼い間は、子どもは家にいて、親に聞くしかない。聞かれた親は何かしら答えないといけない。こっちは学校へ行ってから何十年もたっているから、聞かれてもとっさに答えられない。

布団で並んで寝てから聞かれた。

子:歴史教えて。
父;なんだい。
子:鎌倉幕府の前は何? 
父:うっ >_<; えーと、室町かな。(室町は鎌倉の後だよ)

子:じゃその前は?
父:えーと、南北朝だっけ。(南北朝は鎌倉と室町の間だろ、たく)

子:じゃさ、江戸時代の前は何?
父:ちょっと調べてみる。・・・・・・安土桃山だ。(そのくらい常識だろ)

子:鎌倉時代はだれが始めたの?
父:(これは、自信を持って)源頼朝だよ。
子:で、鎌倉時代には何があったの?
父:うっ、えーと、えーと、義経が奥州藤原家に逃げて・・・・・
父:それから、確か元寇の役とか・・・・・(役はいらない、文永の役と弘安の役)

こんな調子で、しどろもどろ。確か、日本史は授業受けたよな。でも、全然覚えていない。覚えているのはいい国作ろう鎌倉幕府ぐらいなもんだ。妻にも聞いてみたが、大同小異だった。

学校の先生も大変だなと思ったが、よく考えるとホームスクールの場合、本人の関心の赴くままに進めていくもので、何が飛び出すか全く予想がつかない。決まったカリキュラムで準備すればいい学校の先生とは違うかもしれない。

息子は大人は何でも知っていると思うから、なんだ知らないのかみたいな目で見る。お父さんも何でも知っているわけではないんだよ。知らないことの方がはるかに多いんだと説明すると、そうなんだと言っても、それでも容赦なく聞いてくる。 

子:縄文時代について教えて。
父:縄文というのは縄の模様のことで・・・・・・・・・
父:住宅は竪穴住居で・・・・・・

これで弾切れ。

子:ふーん、で、縄文の次は?
父:弥生時代だよ。
子:その次は何?

次はなんだっけ。 息子は寝てしまった
深夜、ネットで年表を見て即席でお勉強。

翌日、弥生の次は古墳時代で、と聞かれもしないのに付け焼刃で説明した。
が、息子は突然、明治は何があったのと聞いてきた。
そこまで調べてないよ、お父さん子どもの頃は明治維新までしか教えてもらってないんだ。
その後も大正から昭和、平成まで聞かれた。
息子は本を読んで説明されるのを嫌がるから、うろ覚えの記憶を手繰りながら悪戦苦闘の毎晩になっている。
日本の歴史なんか知らなくてって仕事に困ることなんかない、と妻にぼやいたら、その通りだねと笑ってなぐさめてくれたが。

少しずつ馴れてきて、息子はよくわかっていないから正確に話さなくてもいい、それより大きな流れだけ話し、今から1000年前とか500年前ぐらいで十分だと分かってきた。
日本の歴史も調べているうちにだいぶ詳しくなってきた。しばらくすると、父では飽き足らなくなって、自分で調べるようになるだろう。せめて、せめてそれまでの間のやりとりを楽しむことにしよう。

言葉
子どもは学校においてその感情生活は無視されている。さらにいけないことに、それが抑制されている。(略)感情的に一方に偏った教育をされたものは、決して心の寛い人物になることはできない。」A.S.二ール

2010年9月3日金曜日

闇教育

子どもを育てるとき、決して叱るまいと決めた。

理由はアリス・ミラーの「魂の殺人」を読んだからだ。

その本では親から虐待されると、その子は成人してから精神障害や倒錯、強迫神経症になりやすく、人から騙されやすくなると書いてあった。虐待された子どもは依存すべき親に虐待されたことを、親の愛情と解釈してその状況をごまかすようになる。というより、そうする以外の方法を知らない。つまり、親を絶対化して、自分らしい精神の発露を封じ、親の価値観に沿って生きるようになる。これを闇教育という。
しかし、人間というものは本来の自分を殺すと、その殺された自分は無意識の世界に封じ込まれ、後に沼のメタンガスのようにぼこ、ぼこっと浮いてくる。それが精神的症状であり、自分でもコントロールできない。そういった症状が犯罪、薬物中毒、売春、精神病、自殺といった形をとる。そのほとんどの原因が幼児期における闇教育だそうだ。

また強く主張する人に安易に従ってしまうようになるのも、幼い時に親からの強い指示に従うしかなかった親子関係が再現してしまうということだ。
そういえば、オウム真理教で学歴もあり、知識も豊富な人が麻原彰晃なる怪人にいいように操られて、やすやすと人を殺めていたのを思い出した。彼らの幼児体験を確認したわけではないが、どうして高等教育を受けて、あのような怪人に操られるのか理解できなかったが、これで分かったような気がする。

さらに言えば、虐待と、叱ることの差は微々たるもので、いずれにしろ、子どもは自分の自由な精神の発露を表現することを妨げられてしまう。また叱らないとしても、親のまなざしや暗黙の誘導が子どもに不安定な精神状態をもたらし、倒錯した性僻などに現れるそうだ。

だから、アリス・ミラーは子どもに対し以下の点に注意すべきだと言ってる。
1.子どもに敬意をもって接すること
2.子どもの権利を尊重すること
3.子どもの感情に寛容であること
4.子どもの行動から常に学ぶ用意があること

私は、息子に不安な人生を送ってもらいたくはない。だから、決して叱らないと決めて、本人の自由なる精神の成長を見守っていくことにした。そのためか、息子は私に全面的に信頼を寄せてくれ、自ら自由に学び始めた。ここ半年ほどでことわざや漢字を覚えて、分数の足し算、掛け算を理解した。通分は一回で覚えたのに、九九はちっとも覚えない。要するにむらがあって、学校ではついていけないと思った。

そうやって大事に育てた子どもを学校に行かせることで、教師に叱られたり、カリキュラムを強要されて、自由な精神の発露や自立への成長を妨げてもらいたくはないと思う。ゆえに、学校には行かせないことにした。

言葉
私としては「教育」という言葉には全く何も肯定的意味も見いだせない。教育の中に見えるのは大人の側の自己防衛であり、大人が不自由であり、不確かであるがゆえに弄される策略ばかりです。」アリス・ミラー

2010年9月1日水曜日

プロクルーステースの寝台

ギリシャ神話にプロクルーステースという追剥の話が出てくる。

この男は旅人を捕まえて寝台に縛り付け、旅人の身長が寝台より長いと足を切り、短いとロープで引き延ばして寝台の長さに合わせる。そして身ぐるみ剥いで殺してしまう。

この寝台は現代の学校のしくみと驚くぐらいよく似ている。現代の学校は、特定の年齢の同一地域にすむ子どもを無条件に集めて入学させ、学校が作ったカリキュラムを学習させるために、教師が支配する教室に毎日出席し、決められた時間に消化することを強要している。このカリキュラムを消化できない子どもは切り捨てられ、決められた時間以内に学び終えた子どもはそのまま待たされる。
切り捨てられて学業をあきらめた子どもを「落ちこぼれ」といい、待たされて学業に背を向けた子どもを「浮きこぼれ」という。落ちこぼれは昔からいることが分かっていたが、実は浮きこぼれというのがバカにならないほどいることが分かってきた。成績優秀ゆえにいじめられたり、先生から疎まれたりすると、できないふりをして、実際に学業に手を抜くことで、落ちこぼれてしまったり、ただの普通の生徒になってしまうか、不登校になってしまう。

つまり、「学年別に編成されたカリキュラム」がプロクルーステースの寝台の役割をしているのだ。

本来、小学生時代の成長は精神的にも肉体的にも2年ぐらいの幅があるとされている。それを1年の枠に収めると、3年生であっても1年生から5年生までの差異があって当然だと言うことになる。しかもその成長度合いが固定しているより、年齢により変動する方が多い。とすれば、3年で1年生レベルの精神までしか成長していないとしても、その後急速に伸びて、何ら不思議ではない。このことは身長を例にとるとよくわかる。1年生の時一番小さかった子どもが、6年生になったときには一番大きくなったという例はよくある。身長であれば放っておいても伸びるが、学業の場合、低学年で劣等生扱いされることで、自分が勉強ができないと思いこみ、そのまま落ちこぼれて卒業することはありえる。

プロクルーステースの場合はテーセウスに殺されて、寝台も用を失うが、現代のプロクルーステースの寝台は簡単には退治できそうもない。困ったものだ。

写真はウィキベディアより引用

言葉
現在、子どもたちの生活は二つの慣習に支配されている。それは「テレビ」と「学校」である。この二つは、彼らが分別や節度、勇気や正義といったものを学ぶ機会を奪っている。」ジョン・ティラー・ガット